いはず、日と云はず、燈火《あかり》といはず、すべて自分の影をうつすものを嫌ふのである。かれは自分の影を見ることを恐れた。かれは針仕事の稽古《けいこ》にも通はなくなつた。
「おせきにも困つたものですね。」と、その事情を知つてゐる母は、とき/″\に顔をしかめて夫にさゝやくこともあつた。
「まつたく困つた奴《やつ》だ。」
弥助も溜息《ためいき》をつくばかりで、どうにも仕様がなかつた。
「やつぱり一つの病気ですね。」と、お由は云つた。
「まあさうだな。」
それが大野屋の人々にもきこえて、伯母《おば》夫婦も心配した。とりわけて要次郎は気を痛めた。ことに二度目のときには自分が一緒に連れ立つてゐただけに、彼は一種の責任があるやうにも感じられた。
「おまへが傍に附いてゐながら、なぜ早くその犬を追つてしまはないのだねえ。」と、要次郎は自分の母からも叱《しか》られた。
おせきが初めて自分の影を踏まれたのは九月の十三夜である。それからもう半年以上を過ぎて、おせきは十八、要次郎は廿歳《はたち》の春を迎へてゐる。前々からの約束で、今年はもう婿入りの相談をきめることになつてゐるのであるが、肝心の婿取り娘が半
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