《こく》(午後十二時)にその蝋燭の火を照して、壁か又は障子《しようじ》にうつし出される娘の影を見とゞけろと云ふのである。娘に何かの憑物《つきもの》がしてゐるならば、その形は見えずとも其《その》影があり/\と映る筈《はず》である。その娘に狐が憑いてゐるならば、狐の影がうつるに相違ない。鬼が憑いてゐるならば鬼が映る。それを見とゞけて報告してくれゝば、わたしの方にも又相当の考へがあると云ふのであつた。かれはその蝋燭《ろうそく》を小さい白木《しらき》の箱に入れて、なにか呪文《じゆもん》のやうなことを唱《とな》へた上で、うや/\しく弥助にわたした。
「ありがたうござります。」
夫婦は押頂《おしいただ》いて帰つて来た。その日はゆふ方から雨が強くなつて、とき/″\に雷《らい》の音がきこえた。これで梅雨《つゆ》も明けるのであらうと思つたが、今夜の弥助夫婦に取つては、雨の音、雷の音、それがなんとなく物すさまじいやうにも感じられた。
前から話して置いては面倒だと思つたので、夫婦は娘にむかつて何事も洩《もら》さなかつた。四つ(午後十時)には店を閉めることになつてゐるので、今夜もいつもの通りにして家内の者を寝かせた。おせきは二階の三畳に寝た。胸に一物《いちもつ》ある夫婦は寐《ね》た振《ふり》をして夜のふけるのを待つてゐると、やがて子《ね》の刻《こく》の鐘がひゞいた。それを合図に夫婦はそつと階子《はしご》をのぼつた。弥助は彼《か》の蝋燭《ろうそく》を持つてゐた。
二階の三畳の襖《ふすま》をあけて窺《うかが》ふと、今夜のおせきは疲れたやうにすや/\と眠つてゐた。お由はしづかに揺《ゆ》り起して、半分は寐ぼけてゐるやうな若い娘を寝床の上に起き直らせると、かれの黒い影は一方の鼠壁《ねずみかべ》に細く揺れて映つた。蝋燭を差出す父の手がすこしく顫《ふる》へてゐるからであつた。
夫婦は恐るゝやうに壁を見つめると、それに映つてゐるのは確《たしか》に娘の影であつた。そこには角《つの》のある鬼や、口の尖《とが》つてゐる狐《きつね》などの影は決して見られなかつた。
四
夫婦は安心したやうに先《ま》づほつとした。不思議さうにきよろきよろ[#「きよろきよろ」に傍点]してゐる娘を再び窃《そつ》と寝かせて、ふたりは抜き足をして二階を降りて来た。
あくる日は弥助ひとりで再び下谷の行者《ぎようじや》
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