母の夫人を母と呼ぶことになるらしい。その学生がかつてこんなことを話した。
「伯母は結婚後一週間目とかに、夫が行くえ不明になってしまったのだそうで、それから何と感じたのか、二度の夫を持たないことに決めたのだということです。それについては深い秘密があるのでしょうが、伯母は決して口外したことはありません。僕の母は薄々その事情を知っているのでしょうが、これも僕たちに向ってはなんにも話したことはありませんから、一切《いっさい》わかりません。」
 わたしは夫人の若いときを知らないが、今から察して、彼女の若盛りには人並以上の美貌の持主《もちぬし》であったことは容易に想像されるのである。その上に相当の教養もある、家庭も裕福であるらしい。その夫人が人生の春をすべてなげうち去って、こんにちまで悲しい独身生活を送って来たには、よほどの深い事情がひそんでいなければならない。今もそれを考えながら、わたしは夫人と向い合っていた。
 絶え間なしにひびく水の音のあいだに、蛙の声もみだれて聞える。わたしは表をみかえりながら言った。
「蛙がよく啼きますね。」
「はあ。それでも以前から見ますと、よほど少なくなりました。以前
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