田宮夫人が来た。夫人はいつも下座敷の奥へ通されることになっているそうで、二階のわたしとは縁の遠いところに荷物を持ち込んだ。
 しかし私がここに滞在していることは、甥からも聞き、宿の番頭からも聞いたとみえて、着いて間もなく私の座敷へも挨拶にきた。男と女とはいいながら、どちらも老人同士であるから、さのみ遠慮するにも及ばないと思ったので、わたしもその座敷へ答礼に行って、二十分ほど話して帰った。
 わたしが明日はいよいよ帰るという前日の夕方に、田宮夫人は再びわたしの座敷へ挨拶に来た。
「あすはお発《た》ちになりますそうで……。」
 それを口切りに、夫人は暫く話していた。入梅《にゅうばい》はまだ半月以上も間があるというのに、ここらの山の町はしめっぽい空気に閉じこめられて、昼でも山の色が陰《くも》ってみえるので、このごろの夏の日が秋のように早く暮れかかった。
 田宮夫人はことし五十六、七歳で、二十歳《はたち》の春に一度結婚したが、なにかの事情のために間もなくその夫に引きわかれて、その以来三十余年を独身で暮らしている。わたしの家へ出入りする学生は夫人の妹の次男で、ゆくゆくは田宮家の相続人となって、伯
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