階の座敷へ案内してくれた。川の音がすこしお邪魔になるかも知れませんが、騒ぐようなお客さまはこちらへはご案内いたしませんから、お静かでございますと、番頭は言った。
「はい、田宮の奥さんには長いこと御贔屓《ごひいき》になっております。一年に二、三回、かならず一回はかかさずにお出でになります。まことにお静かな、よいお方で……。」と、番頭はさらに話して聞かせた。
 どこの温泉場へ行っても、川の音は大抵付き物である。それさえ嫌わなければ、この座敷は番頭のいう通り、たしかに閑静であるに相違ないと私は思った。
 時は五月のはじめで、川をへだてた向う岸の山々は青葉に埋められていた。東京ではさほどにも思わない馬酔木《あせび》の若葉の紅く美しいのが、わたしの目を喜ばせた。山の裾には胡蝶花《しゃが》が一面に咲きみだれて、その名のごとく胡蝶のむらがっているようにも見えた。川では蛙の声もきこえた。六月になると、河鹿《かじか》も啼くとのことであった。
 私はここに三週間ほどを静かに愉快に送ったが、そういつまで遊んでもいられないので、二、三日の後には引揚げようかと思って、そろそろ帰り支度に取りかかっているところへ、
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