はずいぶんそうぞうしくて、水の音よりも蛙の声の方が邪魔になるぐらいでございました。」
「そうですか。ここらも年々繁昌するにつれて、だんだんに開けてきたでしょうからな。」と、私はうなずいた。「この川の上《かみ》の方へ行きますと、岩の上で釣っている人を時々に見かけますが、山女《やまめ》を釣るんだそうですな。これも宿の人の話によると、以前はなかなかよく釣れたが、近年はだんだんに釣れなくなったということでした。」
 なに心なくこう言った時に、夫人の顔色のすこしく動いたのが、薄暗いなかでも私の目についた。
「まったく以前は山女がたくさんに棲んでいたようでしたが、川の両側へ人家が建ちつづいてきたので、このごろはさっぱり捕れなくなったそうです。」と、夫人はやがて静かに言い出した。「山女のほかに、大きい鰻もずいぶん捕れましたが、それもこのごろは捕れないそうです。」
 こんな話はめずらしくない。どこの温泉場でも滞在客のあいだにしばしば繰返される。退屈しのぎの普通平凡の会話に過ぎないのであるが、その普通平凡の話が端緒《たんしょ》となって、わたしは田宮夫人の口から決して平凡ならざる一種の昔話を聞かされること
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