、やがて夜も九時に近い時刻になっても、夫はまだ戻って来ないのです。こうなると、いよいよ不安心になって来ましたので、わたくしは帳場へ行って相談しますと、帳場でも一緒になって心配してくれました。
温泉宿に来ている男の客が散歩に出て、二時間や三時間帰らないからといって、さのみの大事件でもないのでしょうが、わたくしどもが新婚の夫婦連れであるらしいことは宿でも承知していますので、特別に同情してくれたのでしょう、宿の男ふたりに提灯を持たせて川の上下《かみしも》へ分かれて、探しに出ることになりました。わたくしも落着いてはいられませんので、ひとりの男と連れ立って川下の方へ出て行きました。
その晩の情景は今でもありありと覚えています。その頃はここらの土地もさびしいので、比較的に開けている川下の町家の灯も、黒い山々の裾に沈んで、その暗い底に水の音が物すごいように響いています。昼から曇っていた大空はいよいよ低くなって、霧のような細かい雨が降って来ました。
捜索は結局無効に終りました。川上へ探しに出た宿の男もむなしく帰って来ました。宿からは改めて土地の駐在所へも届けて出ました。夜はおいおいに更けて来まし
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