らそれへと追窮するような博士の態度を、わたしは少しく怪しみながら答えた。
「五年ほど前です。」
「五年ほど前……。」と、博士は過去を追想するように言った。「わたしが泊まったのは七年前だから、その頃にはまだ帰っていなかったのですね。」
「じゃあ、あなたもその旅館にお泊りになった事があるんですか。」
「あります。」と、博士はうなずいた。「その土地に流行する一種の害虫を調査するために、一ヵ月ほどもMの町に滞在していました。そのあいだに近所の町村へ出張したこともありましたが、大抵はS旅館を本陣にしていました。あなたの言う通り、土地では屈指《くっし》の旧家であるだけに、旅館とはいいながら大きい屋敷にでも住んでいるような感じで、まことに落ちついた居心地のいい家でした。老主人夫婦も若主人夫婦も正直な好人物で、親切に出這入《ではい》りの世話をしてくれましたが……。」
 言いかけて、博士は表に耳を傾けた。
「雨の音ですね。」
「降って来たようです。」と、わたしも耳を傾けながら言った。「さっきまで晴れていたんですが……。」
「秋の癖ですね。」
 ふたりは暫く黙って雨の音を聴いていたが、やがて博士は又しずか
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