逢った時よりも、特別に懐かしく感じられるのが人情であろう。博士はふだんよりも打解けて言った。
「どうです。用がなければ、私の座敷へ遊びに来ませんか。」
「はあ。お邪魔に出ます。」
 川ばたの散歩はやめにして、わたしは直ぐに博士のあとに付いてゆくと、廊下を二度ほど曲った所にある八畳の座敷で、障子の前の縁先には中庭の松の大樹が眼隠しのように高くそびえていた。女中を呼んで茶を入れ換えさせ、ここの名物|柿羊羹《かきようかん》の菓子皿をチャブ台に載せて、博士は私と差向いになった。今晩は急に冷えてまいりましたと、女中も言っていたが、日が暮れてから俄《にわ》かに薄ら寒くなった。その頃わたしはちっとばかり俳句をひねくっていたので、夜寒《よさむ》の一句あるべきところなどとも思った。
「九州はどっちの方へ行くのですか。」
「九州は博多……久留米……熊本……鹿児島……。」と、わたしは答えた。「まだ其他にも四、五ヵ所ばかり途中下車の予定です。」
「ははあ。では、鹿児島本線視察というような訳ですな。」
「まあまあ、そんなわけです。」
「九州は初めてですか。」
「博多までは知っていますが、それから先は初旅です。」
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