嬉しかった。
風呂にはいって、ゆう飯を済ませて、これから川端でも散歩してみようかなどと思いながら、二階の廊下へ出て往来をながめている時、不意にわたしの肩を叩いて「やあ。」と声をかけた人がある。振返ると、それは東京の藤木博士であった。
私は社用で博士の自宅を二、三回訪問したことがある。博士の講演もしばしば聴いている。そんなわけで博士とはお馴染であるが、思いも寄らないところで顔を見合せてちょっとおどろかされた。
「これかちどちらへ……。」と、わたしは訊いた。博士は某官庁の嘱託《しょくたく》になっているから、何かの用件で地方へ出張するのであろうと想像したのであった。
「いや、まっすぐに東京へ帰るのです。」と、博士は答えた。
博士の郷里は九州の福岡で、その実家にいる弟の結婚式に立会うために、先日から帰郷していたのであるが、式もめでたく終って東京へ帰るという。
九州から東京へ帰る博士と、東京から九州へゆく私と、あたかも摺れ違いに、この宿の二階で落合ったのである。機会がなければ、同じ旅館に泊り合せても、たがいに知らず識らずに別れてしまうこともある。一夜の宿で知人に出逢うのは、ほかの場所で出
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