切角ではございますが、これは他の事とも違います。またその相手も他のお方とは違います。仮にも御主人様と名の付く方に傷を付けるなどとは、考えても怖しいことでございます。どうぞこればかりは……。」
お菊は一生懸命になって断ったが、お常は何《ど》うしても許さなかった。お久も肯《き》かなかった。このままにして置けば、お熊さんは前の川へ身を投げるに決っている。お前は若旦那に傷を付けるのを恐れながら、若いお内儀さんを見殺しにするのは何とも思わないのか。若旦那は婿である、若いお内儀さんは家附の娘である。お前はここの店の家来でありながら家附の娘を殺しても、入婿の若旦那に忠義を立てたいのか。それでは奉公の筋道が違いはしないかと、その時代の人には道理《もっとも》らしく聞えたような理屈責にして、お久は頻《しきり》にお菊の決心を促した。それでも彼女《かれ》は素直にその道理の前に屈伏することを躊躇した。まあ兎も角も明日まで待ってくれと、お菊は一寸《いっすん》逃れの返事をして、ようよう其処《そこ》から逃げ出して来たのであった。
「どうしたら可《よ》いだろう」
彼女《かれ》はだんだんに暗くなってゆく水の色を眺めな
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