音が軽く聞えた。怖いもの見たさに、お菊は眼を少しく明けて窃《そっ》と窺うと、うす暗い行燈《あんどう》の前に若い女の立姿が幻のように浮き出していた。もしや幽霊かとお菊は又|悸《おび》えて首を悚《すく》めると、女は彼女《かれ》の枕もとへすう[#「すう」に傍点]と這い寄って来て低声《こごえ》で呼んだ。
「お菊。寝ているのかえ。」
 それが若いお内儀さんの優しい声であることを知った時に、お菊はほっ[#「ほっ」に傍点]として顔をあげると、お熊は抑えるように又囁いた。
「可《い》いから寝ておいでよ。」
 主人の前で寝そべっている訳には行かないので、お菊はすぐに衾《よぎ》を跳退《はねの》けて蒲団の上に跪坐《かしこま》ると、お熊はその蒲団の端へ乗りかかるように両膝を突き寄せて彼女《かれ》の顔を覗き込んだ。
「今日の夕方、阿母《おっか》さんからお前に何か頼んだことがあるだろう。」
 若いお内儀さんが夜半《よなか》に閨《ねや》をぬけ出して、下女部屋へ忍んで来た仔細は直《すぐ》に判った。判ると同時に、お菊は差当りの返事に困った。さりとて嘘を吐《つ》く訳にも行かないので、彼女《かれ》は恐れるように窃《そっ》と
前へ 次へ
全23ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング