違う夫婦は余り多くは見当らなかった。年の若いお菊にはそれが余りに不釣合のように思われた。まだその上に若旦那は色の黒い、骨の太い、江戸の人とは受取れないような、頑丈な不粋《ぶいき》な男振で、まるで若いお内儀さんとは比べ物にならなかった。何のこともない、五月人形の鐘馗様とお雛様とを組み合せたようなもので、余りに若いお内儀さんが痛々しかった。殊に新参ながらも入婿の事情を薄々知っているお菊は、五百両の金の型に身を売ったような若いお内儀さんの不運には愈《いよい》よ同情していた。
他人の眼から見てすらもそうである。まして現在の阿母《おふくろ》様の身になったら、その不釣合も愈よ眼に立つことであろう。若いお内儀さんも可哀そうに思われることであろう。人の善い若旦那を指して、心の好くない者というのは、些《ちっ》と受取り難《にく》い話ではあるが、何方《どっち》にしても阿母様の心では若旦那を追い出したいに相違ない。それは無理もないことだと彼女《かれ》は思った。しかし自分がそんな空怖しい役目を引受けて、何の恨《うらみ》もない若旦那に無実の云い懸けをするなどとは、飛んでも無いことだと彼女《かれ》は又思った。
「切角ではございますが、これは他の事とも違います。またその相手も他のお方とは違います。仮にも御主人様と名の付く方に傷を付けるなどとは、考えても怖しいことでございます。どうぞこればかりは……。」
お菊は一生懸命になって断ったが、お常は何《ど》うしても許さなかった。お久も肯《き》かなかった。このままにして置けば、お熊さんは前の川へ身を投げるに決っている。お前は若旦那に傷を付けるのを恐れながら、若いお内儀さんを見殺しにするのは何とも思わないのか。若旦那は婿である、若いお内儀さんは家附の娘である。お前はここの店の家来でありながら家附の娘を殺しても、入婿の若旦那に忠義を立てたいのか。それでは奉公の筋道が違いはしないかと、その時代の人には道理《もっとも》らしく聞えたような理屈責にして、お久は頻《しきり》にお菊の決心を促した。それでも彼女《かれ》は素直にその道理の前に屈伏することを躊躇した。まあ兎も角も明日まで待ってくれと、お菊は一寸《いっすん》逃れの返事をして、ようよう其処《そこ》から逃げ出して来たのであった。
「どうしたら可《よ》いだろう」
彼女《かれ》はだんだんに暗くなってゆく水の色を眺めながら、夢見る人のように考えつめていた。退引《のっぴき》ならない難儀を逃れるのには、寧《いっ》そここを逃げて帰るに限るとも思った。しかし年季中に奉公先から無暗《むやみ》に逃げて帰ったら、物堅い両親が何と云うであろう。たといこの訳を打明けても恐らく真実《ほんとう》とは思ってくれまい。自分の我儘から奉公を嫌って、そんな出鱈目の口実を作って逃げ出して来たものと思われて、厳しく叱られるに相違ない。そうして、正直一図の阿父《おとっ》さんは忌《いや》がる妾《わたし》を無理無体に引摺って、再びこの店へ連れて来るに相違ない。そうなったら、お内儀さんや若いお内儀さんから何《ど》んなに憎まれるであろう。お久どんから何《ど》んなに窘《いじ》められるであろう。それを思うと、お菊は帰るにも帰られなかった。
長助どんに相談したら必然《きっと》若旦那に訴えるに相違ない。そうなると、妾《わたし》は生証人に曳き出される。お内儀さんやお久どんはそんなことを頼んだ記憶《おぼえ》はないと云うに決っている。妾《わたし》一人が罪をかぶせられて、根も葉もない讒言を構えたと云うことになる。それもあんまり口惜《くやし》いと彼女《かれ》は思った。
それと同時に彼女《かれ》は黄八丈の小袖も欲かった。若いお内儀さんも気の毒であった。よもやと思うものの、若しお熊さんがこの川へ飛び込んだら何《ど》うなるであろう。彼女《かれ》はまた悚然《ぞっ》とした。
「この川で死ねるかしら。」
お菊は川岸へ出て怖そうに水の面《おもて》を覗いて見た。空はまだ暮れ切れなかったが、水の光は漸次《しだい》に褪めて、薄ら寒い夕靄の色が川下の方から遡るように拡がって来た。水は音もなく静かに流れていた。
番太郎が七つ半(午後五時)の析《き》を打って来たのに驚かされてお菊は慌てて内へ入った。
下
お菊はその晩寝付かれなかった。自分を睨んでいる若旦那の怖い顔や、泣いて自分に頼むような若いお内儀さんの痛々しい顔や、むずかしそうな在所の両親《ふたおや》の顔や、十両の小判や、黄八丈の小袖や、それが走馬燈《まわりどうろう》のように彼女《かれ》の頭の中をくるくる[#「くるくる」に傍点]と廻《めぐ》った。隣に床を延べているお久はと覗いて見ると平日《いつも》は寝付が悪いと口癖のように云っている彼女《かれ》が、今夜に限って枕に顔を押付けるかと思うと、何
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