あった。五百両の金が入ったので、義理の悪い借金は大抵片附いた。白子屋の店も蘇生《よみが》えったように景気を盛返した。又四郎は律義一方の男で商売にも精を出した。
 併しお常の華美や贅沢は矢はり止まなかった。お熊と忠七との縁も真実《ほんとう》に切れてはいなかった。こうした家庭がいつまでも円く治ってゆく筈はなかった。もともとが金を目的《めあて》に貰った婿であるから、月日の経つに従ってお常は又四郎を邪魔にし出した。お熊は勿論彼を嫌っていた。忠七も蔭に廻って色々の智慧を吹き込んだ。三人が暗い所に時々寄集って、何とかして又四郎を追い出したいと相談を凝したが、律義一方の婿の上から何かの落度を見付け出すということは頗る困難であった。理屈無しに彼を離婚するには忌が応でも持参金の五百両を附けて戻さなければならなかった。今の白子屋にその金のあろう筈はなかった。
 思案に行き詰まったお常は、或粉薬を飯にまぜて又四郎を鼠のように殺そうとしたが、飯炊の長助に妨げられて成功しなかった。その以来又四郎は余ほど警戒しているらしく見えるので、お常も迂闊に手を出すことが能《でき》なくなった。忠七は自棄《やけ》になって放蕩を始めた。お熊は嫉妬やら愚痴やらで毎日泣いた。お常もいよいよ焦《じ》れに焦れた末に、浅い女の胸の底からこんな苦しい智慧を絞り出した。
「お菊に心中を仕掛けさせ、それを科《とが》に又四郎を追い出そう。」
 その相談を第一に受けたのは、お気に入りのお久であった。彼女《かれ》はすぐに同意した。
「そうですね。お菊どんならば色は白し、眼鼻立もまんざらで無し、あれならば若旦那の相手だと云っても世間で承知しましょう。」
 所謂まんざらで無い容貌《きりょう》の持主に生れて、下女には惜《おし》いと皆なから眼をつけられていたお菊は不運であった。彼女《かれ》はお内儀《かみ》さんの前に呼び付けられて、お久の口を通しておそろしい役目を云い付けられた。若旦那の熟《よく》寝ているところへ忍んで行って、剃刀でその喉《のど》へ少しばかりの傷をつけてくれ。決して殺すには及ばない。唯ほんの微傷《かすりきず》でも付けてくれれば可《い》い。そうして、お前も喉を突く真似をしろ。そこへ誰かが飛び込んで取|鎮《しづ》めるから案じることはない。何故そんなことをしたかと調べられたら、お前は何にも云わずに泣いていれば可《い》い。唯それだけのことだとお久は云った。
「わたくしが若旦那様に傷を付ければ、どうなるのでございます。」と、年の若いお菊は顫えながら訊いた。
「約《つま》り若旦那がお前と密通していて、お前が心中を仕掛けたと云うことになる。そうすれば、若旦那も離縁になる。それがお店の為でもあり、お嬢さんの為でもある。勿論、皆なが承知のことだから、決してお前に科《とが》も難儀もかけまい。それを首尾よく仕負うせれば、お前もお暇になる代りに、十両のお金と別にお嬢さんの黄八丈のお小袖を下さる。お前それでも忌か。」と、お久は黄八丈という詞《ことば》に少し力を入れて低声《こごえ》で云い聞かせた。
 この春お熊が母と一所に回向院のお開帳へ参詣した時に、お菊も供をして行った。お熊の黄八丈の小袖が群集の中でも眼についた。店へ帰ってからお菊は嘆息を吐いてお久に囁いた。
「妾《わたし》も一生に一度でも可《い》いから、あんなお小袖を着て見たい。」
 お久はそれを能《よ》く記憶していて、今度の褒美に黄八丈の小袖を懸けたのであった。十両の金よりも、黄八丈がお菊の魂を唆かした。しかしそんな大それたことを引受けて可《い》いか悪いか、彼女《かれ》にも容易に分別が付かなかった。
「又四郎は心の好《よ》くない者だから離縁したいと思っているが、そこには何かの科《とが》がなければならない。お前が唯少しの微傷《かすりきず》[#ルビの「かすりきず」は底本では「かすりきづ」]を負わせてくれれば可《い》い。何の相手を殺せばこそ主殺しにもなろうが、ほんの微傷を付けた位のことは別に仔細もない。妾《わたし》達が呑込んでいて何事も内分に済ませる。あんな者に一生添わせて置いては、娘が如何にも可哀想だから、お前もそこを察して……この通り、主人が手をついて頼みます。」と、お常は鼻を詰らせて口説いた。
 あんな者に添わせて置いては娘が可哀想だ……これもお菊の心を動かした。若旦那の又四郎は主人として別に不足もない。入婿という遠慮もあろうが、眼下《めした》の者に対しても物柔かで、ついぞ主人風を吹かしたことも無い。暴《あら》い声で叱ったこともない。しかしそれを若いお内儀さんのお婿として看る時にはお菊の眼も又違って、平生《ふだん》から若いお内儀さんの不運をお気の毒だと思わないでもなかった。第一に若旦那は今年三十九で若いお内儀さんは二十三だという。その時代に於ては十六も年の
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