にも云わずに衾《よぎ》をすっぽり[#「すっぽり」に傍点]と引被ってしまった。
寝付が悪いというお久が今夜は熟《よく》睡《ねむ》って、寝坊だと笑われている自分が今夜は何《ど》うして睡られそうもないので、お菊は幾たびか輾転《ねがえり》した。軈《やが》てうとうと[#「うとうと」に傍点]と睡《ねむ》ったかと思うと、彼女《かれ》は何だか得体の知れない真黒な大きい怪物にぐいぐい[#「ぐいぐい」に傍点]と胸を圧《お》さえ付けられて、悶いて苦しんでようように眼を醒ますと、しっかり[#「しっかり」に傍点]獅噛付《しがみつ》いていた衾《よぎ》の襟は冷い汗にぐっしょり[#「ぐっしょり」に傍点]と湿《ぬ》れていた。
「ああ気味が悪い。」
彼女《かれ》は寝衣《ねまき》の袂で首筋のあたりを拭きながら、腹這いになって枕辺《まくらもと》の行燈《あんどう》の微《かすか》な灯《ほ》かげを仰いだ時に、廊下を踏む足音が低くひびいた。
「おや、泥棒か知ら。」とお菊は今夜に限って急に怖気《こわげ》立った。彼女《かれ》は慌てて俯伏して再び衾《よぎ》を被っていると、枕もとの襖が軋みながらに明いた。長い裾を畳に曳いているらしい衣の音が軽く聞えた。怖いもの見たさに、お菊は眼を少しく明けて窃《そっ》と窺うと、うす暗い行燈《あんどう》の前に若い女の立姿が幻のように浮き出していた。もしや幽霊かとお菊は又|悸《おび》えて首を悚《すく》めると、女は彼女《かれ》の枕もとへすう[#「すう」に傍点]と這い寄って来て低声《こごえ》で呼んだ。
「お菊。寝ているのかえ。」
それが若いお内儀さんの優しい声であることを知った時に、お菊はほっ[#「ほっ」に傍点]として顔をあげると、お熊は抑えるように又囁いた。
「可《い》いから寝ておいでよ。」
主人の前で寝そべっている訳には行かないので、お菊はすぐに衾《よぎ》を跳退《はねの》けて蒲団の上に跪坐《かしこま》ると、お熊はその蒲団の端へ乗りかかるように両膝を突き寄せて彼女《かれ》の顔を覗き込んだ。
「今日の夕方、阿母《おっか》さんからお前に何か頼んだことがあるだろう。」
若いお内儀さんが夜半《よなか》に閨《ねや》をぬけ出して、下女部屋へ忍んで来た仔細は直《すぐ》に判った。判ると同時に、お菊は差当りの返事に困った。さりとて嘘を吐《つ》く訳にも行かないので、彼女《かれ》は恐れるように窃《そっ》と答えた。
「はい。」
「まことに無理なことだけれどもね。お前、後生だから承知しておくれでないか。定めて怖ろしい女だと思うかもしれないが、妾《わたし》の身にもなっておくれ。お前も大抵知っているだろうが忠七と妾《わたし》との仲を引き分けて、気に染まない婿を無理に取らせたのは、皆阿母さんが悪い。ここの家《うち》へお嫁に来てから足掛け三十年の間に、仕度三昧の道楽や贅沢をして、阿母さんは白子屋の身上を皆な亡くして了った。その身上を立直す為に、妾はとうとう人身御供にあげられて忌《いや》な婿を取らなければならないことになった。思えば思うほど阿母さんが怨めしい、憎らしい。世間には親の病気を癒す為に身を売る娘もあるそうだが、寧《いっ》そその方が優《まし》であったろう。」
お熊は声を忍ばせて泣いた。彼女《かれ》の痩せた肩が微《かすか》におののく度に、行燈の弱い灯も顫えるようにちらちら[#「ちらちら」に傍点]と揺れて、眉の痕のまだ青い女房の横顔を仄白く照していた。今の水々しい美しさを見るに付けても、その娘盛りが思い遣られて、お菊は若いお内儀さんの悲しい過去と現在とを悼ましく眺めた。
「ねえ、お菊。くどいようだけれども、承知しておくれでないか。阿母さんも流石《さすが》、娘が可哀そうになったと見えて、この頃では何《ど》うかして又四郎を離縁したいと色々に心配してくれているようだけれど、何しろ五百両という金の工面は付かず、こんな辛い思いをして何日までも生きている位なら、妾《わたし》はもう寧《いっ》そのこと……。」
遣瀬ないように身を悶えて、お熊は鳴咽《すすりなき》の顔をお菊の膝の上に押付けると、夜寒に近い此頃の夜にも奉公人の寝衣《ねまき》はまだ薄いので、若い女房の熱い涙はその寝衣を透して若い下女の柔かい肉に滲んだ。お熊の魂はその涙を伝わってお菊の胸に流れ込んだらしく、彼女《かれ》は物に憑かれたように、身を顫わせて、若いお内儀さんの手を握った。
「判りました。よろしゅうございます。」
「え。それでは聞いてくれるの。」
「はい。」と、お菊は誓うように答えた。
お熊は何にも云わないでお菊を拝んだ。その途端に、隣に寝ていたお久が不意に此方《こっち》へ向いて輾転《ねがえり》を打った。お菊は吃驚《びっくり》して見かえると、それを相図のようにお熊は窃《そっ》と起った。どこかで既《も》う一番鶏の歌う声が聞
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