えた。

 それから八日目の九月十一日の夜半に、お菊は厳重に縛り上げられて白子屋の店から牽き出された。名主や五人組も附添って、町奉行所の方へ急いで行った。夜露がもう薄い露になっていて、地に落ちる提灯の影が白かった。
 北の町奉行は諏訪美濃守であった。お菊はその夜主人又四郎の寝間へ忍び込んで、剃刀で彼が咽喉《のど》を少しばかり傷つけたと云うので主《しゅ》殺しの科人《とがにん》として厳重の吟味を受けた。お菊は心中であると申し立てた。かねて主人と情を通じていたが所詮一所に添い遂げることは能《でき》ないので、男を殺して自分も死のうとしたのであると云った、相手の又四郎も翌日呼び出されたが、彼はお菊の申し立てを一切否認して、白子屋は悪人どもの巣であると云った。入婿の自分は今まで何事にも虫を殺して堪忍していたが、第一に女房のお熊は手代と密通しているらしいと云った。母のお常にも不行跡が多いと云った。今度の一条もお菊の一存でなく、ほかに彼女《かれ》を唆した者があるに相違ないと云い切った。
 奉行所でも手を廻して吟味すると、どの方面から齎して来る報告もすべて又四郎に有利なものであった。
「上を欺くな。正直に白状しろ。」
 この訊問に対して、正直なお菊は脆くも恐れ入って了った。奉行の美濃守は眉を顰めた。これは容易ならざる大事件である。経験の浅い自分には迂闊に裁判を下し難いと思ったので、彼はその事情を打ち明けてこの一件を南の町奉行所へ移した。南の奉行は大岡越前守|忠相《ただすけ》で、享保二年以来、十年以上もここに勤続して名奉行の名誉《ほまれ》を頂いている人物であった。
「おそろしいことじゃ。これには死罪が大勢出来る。」と流石《さすが》の越前守も一件書類に眼を通して、悲しそうに嘆息をついた。
 同じ月の十五日に白子屋の主人庄三郎、女房お常、養子又四郎、女房お熊、手代忠七、清兵衛、下女お久、下男彦八、長助、権介、伊介の十一人は奉行所へ呼び出されて、名奉行の吟味を受けた。お久が先ず白状した。お常とお熊と忠七もつづいて奉行の問に落ちた。お菊は勿論お常とお熊と忠七とお久の四人もすぐに入牢申し付けられた。この時代の法によると、この罪人の殆ど全部が死罪に処せらるべき運命を荷っていた。
 入牢中にお熊も泣いた。お菊は声を立てて毎日泣き叫んで、牢屋役人を困らせた。秋も段々に末になって伝馬町の牢屋でも板間の下
前へ 次へ
全12ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング