答えた。
「はい。」
「まことに無理なことだけれどもね。お前、後生だから承知しておくれでないか。定めて怖ろしい女だと思うかもしれないが、妾《わたし》の身にもなっておくれ。お前も大抵知っているだろうが忠七と妾《わたし》との仲を引き分けて、気に染まない婿を無理に取らせたのは、皆阿母さんが悪い。ここの家《うち》へお嫁に来てから足掛け三十年の間に、仕度三昧の道楽や贅沢をして、阿母さんは白子屋の身上を皆な亡くして了った。その身上を立直す為に、妾はとうとう人身御供にあげられて忌《いや》な婿を取らなければならないことになった。思えば思うほど阿母さんが怨めしい、憎らしい。世間には親の病気を癒す為に身を売る娘もあるそうだが、寧《いっ》そその方が優《まし》であったろう。」
 お熊は声を忍ばせて泣いた。彼女《かれ》の痩せた肩が微《かすか》におののく度に、行燈の弱い灯も顫えるようにちらちら[#「ちらちら」に傍点]と揺れて、眉の痕のまだ青い女房の横顔を仄白く照していた。今の水々しい美しさを見るに付けても、その娘盛りが思い遣られて、お菊は若いお内儀さんの悲しい過去と現在とを悼ましく眺めた。
「ねえ、お菊。くどいようだけれども、承知しておくれでないか。阿母さんも流石《さすが》、娘が可哀そうになったと見えて、この頃では何《ど》うかして又四郎を離縁したいと色々に心配してくれているようだけれど、何しろ五百両という金の工面は付かず、こんな辛い思いをして何日までも生きている位なら、妾《わたし》はもう寧《いっ》そのこと……。」
 遣瀬ないように身を悶えて、お熊は鳴咽《すすりなき》の顔をお菊の膝の上に押付けると、夜寒に近い此頃の夜にも奉公人の寝衣《ねまき》はまだ薄いので、若い女房の熱い涙はその寝衣を透して若い下女の柔かい肉に滲んだ。お熊の魂はその涙を伝わってお菊の胸に流れ込んだらしく、彼女《かれ》は物に憑かれたように、身を顫わせて、若いお内儀さんの手を握った。
「判りました。よろしゅうございます。」
「え。それでは聞いてくれるの。」
「はい。」と、お菊は誓うように答えた。
 お熊は何にも云わないでお菊を拝んだ。その途端に、隣に寝ていたお久が不意に此方《こっち》へ向いて輾転《ねがえり》を打った。お菊は吃驚《びっくり》して見かえると、それを相図のようにお熊は窃《そっ》と起った。どこかで既《も》う一番鶏の歌う声が聞
前へ 次へ
全12ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング