にも云わずに衾《よぎ》をすっぽり[#「すっぽり」に傍点]と引被ってしまった。
寝付が悪いというお久が今夜は熟《よく》睡《ねむ》って、寝坊だと笑われている自分が今夜は何《ど》うして睡られそうもないので、お菊は幾たびか輾転《ねがえり》した。軈《やが》てうとうと[#「うとうと」に傍点]と睡《ねむ》ったかと思うと、彼女《かれ》は何だか得体の知れない真黒な大きい怪物にぐいぐい[#「ぐいぐい」に傍点]と胸を圧《お》さえ付けられて、悶いて苦しんでようように眼を醒ますと、しっかり[#「しっかり」に傍点]獅噛付《しがみつ》いていた衾《よぎ》の襟は冷い汗にぐっしょり[#「ぐっしょり」に傍点]と湿《ぬ》れていた。
「ああ気味が悪い。」
彼女《かれ》は寝衣《ねまき》の袂で首筋のあたりを拭きながら、腹這いになって枕辺《まくらもと》の行燈《あんどう》の微《かすか》な灯《ほ》かげを仰いだ時に、廊下を踏む足音が低くひびいた。
「おや、泥棒か知ら。」とお菊は今夜に限って急に怖気《こわげ》立った。彼女《かれ》は慌てて俯伏して再び衾《よぎ》を被っていると、枕もとの襖が軋みながらに明いた。長い裾を畳に曳いているらしい衣の音が軽く聞えた。怖いもの見たさに、お菊は眼を少しく明けて窃《そっ》と窺うと、うす暗い行燈《あんどう》の前に若い女の立姿が幻のように浮き出していた。もしや幽霊かとお菊は又|悸《おび》えて首を悚《すく》めると、女は彼女《かれ》の枕もとへすう[#「すう」に傍点]と這い寄って来て低声《こごえ》で呼んだ。
「お菊。寝ているのかえ。」
それが若いお内儀さんの優しい声であることを知った時に、お菊はほっ[#「ほっ」に傍点]として顔をあげると、お熊は抑えるように又囁いた。
「可《い》いから寝ておいでよ。」
主人の前で寝そべっている訳には行かないので、お菊はすぐに衾《よぎ》を跳退《はねの》けて蒲団の上に跪坐《かしこま》ると、お熊はその蒲団の端へ乗りかかるように両膝を突き寄せて彼女《かれ》の顔を覗き込んだ。
「今日の夕方、阿母《おっか》さんからお前に何か頼んだことがあるだろう。」
若いお内儀さんが夜半《よなか》に閨《ねや》をぬけ出して、下女部屋へ忍んで来た仔細は直《すぐ》に判った。判ると同時に、お菊は差当りの返事に困った。さりとて嘘を吐《つ》く訳にも行かないので、彼女《かれ》は恐れるように窃《そっ》と
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