がら、夢見る人のように考えつめていた。退引《のっぴき》ならない難儀を逃れるのには、寧《いっ》そここを逃げて帰るに限るとも思った。しかし年季中に奉公先から無暗《むやみ》に逃げて帰ったら、物堅い両親が何と云うであろう。たといこの訳を打明けても恐らく真実《ほんとう》とは思ってくれまい。自分の我儘から奉公を嫌って、そんな出鱈目の口実を作って逃げ出して来たものと思われて、厳しく叱られるに相違ない。そうして、正直一図の阿父《おとっ》さんは忌《いや》がる妾《わたし》を無理無体に引摺って、再びこの店へ連れて来るに相違ない。そうなったら、お内儀さんや若いお内儀さんから何《ど》んなに憎まれるであろう。お久どんから何《ど》んなに窘《いじ》められるであろう。それを思うと、お菊は帰るにも帰られなかった。
 長助どんに相談したら必然《きっと》若旦那に訴えるに相違ない。そうなると、妾《わたし》は生証人に曳き出される。お内儀さんやお久どんはそんなことを頼んだ記憶《おぼえ》はないと云うに決っている。妾《わたし》一人が罪をかぶせられて、根も葉もない讒言を構えたと云うことになる。それもあんまり口惜《くやし》いと彼女《かれ》は思った。
 それと同時に彼女《かれ》は黄八丈の小袖も欲かった。若いお内儀さんも気の毒であった。よもやと思うものの、若しお熊さんがこの川へ飛び込んだら何《ど》うなるであろう。彼女《かれ》はまた悚然《ぞっ》とした。
「この川で死ねるかしら。」
 お菊は川岸へ出て怖そうに水の面《おもて》を覗いて見た。空はまだ暮れ切れなかったが、水の光は漸次《しだい》に褪めて、薄ら寒い夕靄の色が川下の方から遡るように拡がって来た。水は音もなく静かに流れていた。
 番太郎が七つ半(午後五時)の析《き》を打って来たのに驚かされてお菊は慌てて内へ入った。

     下

 お菊はその晩寝付かれなかった。自分を睨んでいる若旦那の怖い顔や、泣いて自分に頼むような若いお内儀さんの痛々しい顔や、むずかしそうな在所の両親《ふたおや》の顔や、十両の小判や、黄八丈の小袖や、それが走馬燈《まわりどうろう》のように彼女《かれ》の頭の中をくるくる[#「くるくる」に傍点]と廻《めぐ》った。隣に床を延べているお久はと覗いて見ると平日《いつも》は寝付が悪いと口癖のように云っている彼女《かれ》が、今夜に限って枕に顔を押付けるかと思うと、何
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