で※[#「虫+車」、第3水準1−91−55]《こうろぎ》が鳴いた。家根の上を雁が鳴いて通った暗い冬空が近づくと共に罪人の悲しい運命も終りに近づいて来たが、何分にも死罪の多い裁判であるので、越前守も吟味に吟味を重ねて、その中から一人でも多くを救い出そうと努めたが、お常のほかには何《ど》うしても仕置を軽くする理由を見出すことが能《でき》なかった。
「もともとお内儀さんが悪いのでございます」と、お菊は泣いて訴えた。しかしお常は彼女《かれ》の主人であった。被害者の又四郎に取っても母であった。階級制度の厳重なこの時代にあっては、実際お常がこの事件の張本人であるとしても、彼女《かれ》は第一の寛典に浴すべき利益の地位に立っていた。
死罪は老中に伺いを立てなければならない、老中から更に将軍の裁可を受けなければならない。こうして時日を遷延している中に、何とかして死罪から一等を減ずる方法を見出させようと云うのが、所謂「上のお慈悲」であった。しかし今度の罪人はこのお慈悲を受けることが能《でき》なかった。享保十二年の冬は容赦なく暮れて云った。十二月七日に関係者一同を白洲へ呼び出して、越前守は眉の間に深い皺を刻みながら厳重の宣告を下した。
主人の庄三郎は直接この事件に何の関係もなかったが、一家の主人としてこれほどの事件について何にも知らないと云うのが已に不都合であると認められて、家事不取締の廉《かど》を以て江戸追放を申し渡された。彼はその時に五十五歳であった。お常は前にも云う通り、母であり主人であるが為に、生命《いのち》だけは繋がれて流罪になった。お熊と忠七とは密通の廉を以て、町中引廻しの上に浅草(今の小塚原)で獄門に梟《か》けられることになった。忠七は三十歳であった。お久も町中引廻しの上に死罪を申し渡された。最後にお菊は左《さ》の通りの宣告を受けた。
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庄三郎下女 きく
此者儀主人庄三郎妻つね何程申付候うとも、主人のことに候えば致方《いたしかた》も可有之《これあるべく》の処、又四郎に疵付候段不届至極に付、死罪に申付。但し引廻しに及ばず候。
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死罪四人の中ではお熊が一番落付いていて、少しも悪びれた姿を見せなかった。忠七とお久は今更のように蒼くなって顫えていた。お菊は白洲の砂利の上に身を投げ伏して泣いた。それを見た時に
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