うな考えで、わざわざここまで足を運んだのである。
 海岸には人家が連《つらな》ってしまったので、眺望《ながめ》が自由でない。かつは風が甚だしく寒いので、更に品川の町に入《い》り、海寄りの小料理屋へ上《あが》って、午餐《ひるめし》を喫《く》いながら硝子戸《がらすど》越しに海を見た。暗い空、濁った海。雲は低く、浪は高い。かの「お台場」は、泛《うか》ぶが如くに横《よこた》わっている。今更ではないが、これが江戸の遺物《かたみ》かと思うと、私は何とはなしに悲しくなった。
 今日《こんにち》の眼を以て、この台場の有用無用を論じたくない。およそ六十年の昔、初めて江戸の海にこれを築いた人々は、これに依《よっ》て江戸八百八町の人民を守ろうとしたのである。その当時の徳川幕府は金がなかった。已《や》むを得ずして悪い銀《かね》を造った、随って物価は騰貴《とうき》した、市民は難渋した。また一方には馴れない工事のために、多数の死人を出《いだ》した。かくの如く上下ともに苦《くるし》みつつ、予定の十一ヵ所を全部竣工するに至らずして、徳川幕府も亡びた、江戸も亡びた。しかも江戸の血を享《う》けた人は、これに依て江戸を安全
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