宗教家の温かい心か、あるいは別に何らかの主張があるのか、若い僧の心持《こころもち》は私には判らなかった。油蝉の暑苦しく鳴いている木の下で、私は厚く礼をいって僧と別れた。僧の痩《や》せた姿は大きな芭蕉の葉のかげへ隠れて行った。
 自己の功名の犠牲として、罪のない藤戸《ふじと》の漁民を惨殺した佐々木盛綱は、忠勇なる鎌倉武士の一人《いちにん》として歴史家に讃美されている。復讐の同盟に加わることを避けて、先君の追福と陰徳とに余生を送った大野九郎兵衛は、不忠なる元禄武士の一人として浄瑠璃の作者にまで筆誅《ひっちゅう》されてしまった。私はもう一度かの僧を呼び止めて、元禄武士に対する彼の詐《いつ》わらざる意見を問い糺《ただ》してみようかと思ったが、彼の迷惑を察して止《や》めた。
 今度行ってみると、佐々木の墓も大野の墓も旧《もと》のままで、大野の墓の花筒《はなづつ》には白い躑躅が生けてあった。かの若い僧が供えたのではあるまいか。私は僧を訪わずに帰ったが、彼の居間らしい所には障子が閉じられて、低い四つ目垣の裾に芍薬《しゃくやく》が紅《あか》く咲いていた。

 旅館の門を出て右の小道を這入《はい》ると、
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