夕方にお兼が自分の町内にすがたを現わして、おなおさんその他の稽古朋輩に暇乞いのような詞《ことば》を残して行ったことである。お兼はそれから深川へ行ったのか。それともかれはもう死んでいて、その魂だけが帰って来たのか。それも一つの疑問であった。おなおさんばかりでなく、そこにいた子供たちは同時に皆それを見たのであるから、思い違いや見損じであろうはずはない。
 かれが竹藪の横町へ行くうしろ姿をみて、言い合せたようにみんなが怖くなったというのをみると、どこにか一種の鬼気が宿っていたのかも知れない。いずれにしても、おなおさんを初め近所の子供たちは、確かにお兼ちゃんの幽霊に相違ないと決めてしまって、その以来、日の暮れる頃まで表に出ている者はなかった。親たちも早く帰ってくるように、わが子供らを戒めていた。
 しかし子供たちのことであるから、まったく遊びに出ないというわけにはいかない。それから十日あまりも過ぎた後、まだ七つ(午後四時)頃だからと油断して、おなおさん達が表に出て遊んでいると、ひとりがまた俄かに叫んだ。
「あら、お兼ちゃんが行く。」
 今度は誰も声をかける者もなかった。子供たちは息を呑み込んで
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