女の顔と斜めに向き合った。女の歯の白いのがまず眼について物凄かった。
 わたしは毎朝家を出て、夕方でなければ帰って来ない。お玉さんはめったに外へ出たことはない。お玉さんがこのごろ幽霊のように窶《やつ》れているということは、家の者の話には聞いていたが、わたしは直接にその変わった姿をみる機会がなくて過ぎた。それを今夜初めて見たのである。お玉さんの平べったい顔は削られたように痩せて尖って、櫛巻にしているらしい髪の毛は一本も乱さずに掻き上げられていた。その顔の色は気味の悪いほどに白かった。
「旦那、旦那。」と、お玉さんはひどく若々しい声で呼んだ。
 私も呼ばれて立ちどまった。
「あなたは洋服を着ているんですか。」
 その時わたしは和服を着ていたので、わたしは黙って蝙蝠《こうもり》のように両袖をひろげて見せた。お玉さんはかの白い歯をむき出してにやにやと笑った。
「洋服を着て通りやあがると、あたまから水をぶっ掛けるぞ。気をつけやあがれ。」
 窓はぴっしゃり閉められた。お玉さんの顔は消えてしまった。わたしは物に魘《おそ》われたような心持で早々に家へ帰った。その当時、わたしは毎日出勤するのに、和服を着て出ることもあれば洋服を着て出ることもあった。お玉さんから恐ろしい宣告を受けて以来、わたしは洋服を着るのを一時見あわせたが、そうばかりもいかない事情があるので、よんどころなく洋服をきて出る場合には、なるべく足音をぬすんでお玉さんの窓の下をそっと通り抜けるようにしていた。
 それからひと月ばかり経って、寒い雨の降る日であった。わたしは雨傘をかたむけてお玉さんの窓ぎわを通ると、さながら待ち設けていたかのように、窓が不意にあいたかと思うと、柄杓の水がわたしの傘の上にざぶりと降って来た。幸いに傘をかたむけていたので、差したることもなかったが、その時わたしは和服を着ていたにも拘わらず、こういう不意討ちの難に出逢ったのであった。その以来自分はもちろん家内の者にも注意して、お玉さんの窓の下はいつも忍び足で通ることにしていた。それでも時々に内から鋭い声で叱り付けられた。
「馬鹿野郎! 百姓! 水をぶっかけるぞ。しっかりしろ。」
 口でいうばかりでない、実際に水の降って来ることが度々あった。酒屋の小さい御用などは、寒中に頭から水を浴びせられて泣いて逃げた。近所の子供などはくやしがって、窓へ石を投げ込むの
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