ゆず湯
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)柚《ゆず》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「纏」の「广」に代えて「厂」、250−10]
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     一

 本日ゆず湯というビラを見ながら、わたしは急に春に近づいたような気分になって、いつもの湯屋の格子をくぐると、出あいがしらに建具屋のおじいさんが濡れ手拭で額をふきながら出て来た。
「旦那、徳がとうとう死にましたよ。」
「徳さん……。左官屋の徳さんが。」
「ええ、けさ死んだそうで、今あの書生さんから聞きましたから、これからすぐに行ってやろうと思っているんです。なにしろ、別に親類というようなものも無いんですから、みんなが寄りあつまって何とか始末してやらなけりゃあなりますまいよ。運のわるい男でしてね。」
 こんなことを言いながら、気の短いおじいさんは下駄を突っかけて、そそくさと出て行ってしまった。午後二時ごろの銭湯はひろびろと明かるかった。狭い庭には縁日で買って来たらしい大きい鉢の梅が、硝子戸越しに白く見えた。
 着物をぬいで風呂場へゆくと、流しの板は白く乾いていて、あかるい風呂の隅には一人の若い男の頭がうしろ向きに浮いているだけであった。すき透るような新しい湯は風呂いっぱいにみなぎって、輪切りの柚《ゆず》があたたかい波にゆらゆらと流れていた。窓硝子を洩れる真昼の冬の日に照らされて、かげろうのように立ちまよう湯気のなかに、黄いろい木の実の強い匂いが籠っているのもこころよかった。わたしは好い心持になって先ずからだを湿《しめ》していると、隅の方に浮いていた黒い頭がやがてくるりと振り向いた。
「こんにちは。」
「押し詰まってお天気で結構です。」と、わたしも挨拶した。
 彼は近所の山口という医師の薬局生であった。わたしと別に懇意でもないが、湯屋なじみで普通の挨拶だけはするのであった。建具屋のおじいさんが書生さんといったのはこの男で、左官屋の徳さんはおそらく山口医師の診察を受けていたのであろうと私は推量した。
「左官屋の徳さんが死んだそうですね。」と、わたしもやがて風呂にはいって、少し熱い湯に顔をしかめながら訊いた。
「ええ、けさ七時ごろに……。」
「あなたのところの先生に療治し
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