てもらっていたんですか。」
「そうです。慢性の腎臓炎でした。わたしのところへ診察を受けに来たのは先月からでしたが、なんでもよっぽど前から悪かったらしいんですね。先生も最初からむずかしいと言っていたんですが、おととい頃から急に悪くなりました。」
「そうですか。気の毒でしたね。」
「なにしろ、気の毒でしたよ。」
鸚鵡《おうむ》返しにこんな挨拶をしながら、薬局生はうずたかい柚をかきわけて流し場へ出た。それから水船のそばへたくさんの小桶をならべて、真っ赤にゆでられた胸や手足を石鹸の白い泡に埋めていた。それを見るともなしに眺めながら、わたしはまだ風呂のなかに浸っていた。表には師走《しわす》の町らしい人の足音が忙がしそうにきこえた。冬至《とうじ》の獅子舞の囃子の音も遠く響いた。ふと眼をあげて硝子窓の外をうかがうと、細い露地を隔てた隣りの土蔵の白壁のうえに冬の空は青々と高く晴れて、下界のいそがしい世の中を知らないように鳶が一羽ゆるく舞っているのが見えた。こういう場合、わたしはいつものんびりした気持になって、なんだかぼんやりと薄ら眠くなるのが習いであったが、きょうはなぜか落ちついた気分になれなかった。徳さんの死ということがわたしの頭をいろいろに動かしているのであった。
「それにしてもお玉さんはどうしているだろう。」
わたしは徳さんの死から惹いて、その妹のお玉さんの悲しい身の上をも考えさせられた。
お玉さんは親代々の江戸っ子で、お父《とっ》さんは立派な左官の棟梁株であったと聞いている。昔はどこに住んでいたか知らないが、わたしが麹町の元園町に引っ越して来た時には、お玉さんは町内のあまり広くもない露地の角に住んでいた。わたしの父はその露地の奥のあき地に平家を新築して移った。お玉さんの家は二階家で、東の往来にむかった格子作りであった。あらい格子の中は広い土間になっていて、そこには漆喰《しっくい》の俵や、土舟などが横たわっていた。住居の窓は露地のなかの南にむかっていて、住居につづく台所のまえは南から西へ折りまわした板塀に囲まれていた。塀のうちには小さい物置と四、五坪の狭い庭があって、庭には柿や桃や八つ手のたぐいが押しかぶさるように繁り合っていた。いずれも庭不相当の大木であった。二階はどうなっているか知らないが、わたしの記憶しているところでは、一度も東向きの窓を明けたことはなかった。北隣
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