ものだろうな。」
 老人は相談するように周囲の人々をみかえった。
 人々も目を見合せて返答に躊躇しているらしかったが、叔父が繰返してせがむので、結局この人はすでにあの声を聞いたのであるから、その疑いを解くために話して聞かせてもよかろうということになって、老人は南向きの縁に腰をかけると、女たちは聞くを厭《いと》うように立去ってしまって、男ばかりがあとに残った。
「お前はここらに黒ん坊という物の棲んでいることを知っているかな。」と、老人は言った。
「知りません。」
「その黒ん坊が話の種だ。」
 老人はしずかに話し始めた。
 ここらの山奥には昔から黒ん坊というものが棲んでいる。それは人でもなく、猿でもなく、からだに薄黒い毛が一面に生えているので、俗に黒ん坊と呼び慣わしているのであって、まずは人間と猿との合の子ともいうべき怪物である。しかもこの怪物は人間に対して危害を加えたという噂を聞かない。ただ時どきに山中の杣《そま》小屋などへ姿をあらわして、弁当の食い残りなどを貰って行くのである。時には人家のあるところへも出て来て、何かの食いものを貰って行くこともある。別に悪い事をするというわけでもないので、ここらの山家《やまが》の人々は馴れて怪しまず、彼がのそりとはいって来る姿をみれば、「それ、黒ん坊が来たぞ。」と言って、なにかの食い物を与えることにしている。ただし食い物をあたえる代りに、彼にも相当の仕事をさせるのであった。
 黒ん坊は深山《みやま》に生長しているので、嶮岨《けんそ》の道を越えるのは平気である。身も軽く、力も強く、重い物などを運ばせるには最も適当であるので、土地の人々は彼に食いものを与えて、何かの運搬の手伝いをさせるのであるが、彼は素直によく働く。もちろん、人間の言葉を話すことは出来ないのであるが、こちらが手真似をして言い聞かせれば、大抵のことは呑み込んで指図通りに働くのである。ある地方では山男といい、ある地方では山猿という、いずれも同じたぐいであろう。
 その黒ん坊と特別に親《した》しくしていたのは、杣《そま》の源兵衛という男であった。源兵衛は女房お兼とのあいだに、源蔵とお杉という子供を持っていて、松田から下大須へ通う途中のやや平らなところに一つ家を構えていた。それは叔父がゆうべの宿である。源兵衛は仕事の都合で山奥にも杣《そま》小屋を作っていると、その小屋へかの黒ん坊が姿をあらわして、食いものをもらい、仕事の手伝いをする時には源兵衛の家へもたずねて来ることもあって、家内の人々とも親しくなった。総領の源蔵は鎌倉へ修業に出てしまったので、男手の少ない源兵衛の家ではこの黒ん坊を重宝《ちょうほう》がって、ほとんど普通の人間のように取扱っていた。黒ん坊も馴れてよく働いた。
 こうして幾年かを無事に送っているうちに、源兵衛はあるとき彼にむかって、冗談半分に言った。
「源蔵は鎌倉へ行ってしまって、もうここへは戻って来ないだろう。娘が年頃になったらば、おまえを婿にしてやるから、そのつもりで働いてくれ。」
 女房も娘も一緒になって笑った。お杉はそのとき十四の小娘であった。その以来、黒ん坊は毎日かかさずに杣小屋へも来る。源兵衛の家へも来る。小屋へ来れば材木の運搬を手伝い、家に来れば水汲みや柴刈りや掃除の手伝いをするというふうで、彼は実によく働くのであった。ここらは雪が深いので、今まで冬期にはめったに姿を見せないのであったが、その後はどんな烈しい吹雪の日でも、彼はかならず尋ねて来て何かの仕事を手伝っていた。
 ここらは山国で水の清らかなせいであろう、すべての人が色白で肌目《きめ》が美しい。そのなかでもお杉は目立つような雪の肌を持っているのが、年頃になるにつれて諸人の注意をひいた。親たちもそれを自慢していると、お杉が十七の春に縁談を持ち込む者があって、松田の村から婿をもらうことになった。婿はここらでも旧家と呼ばれる家の次男で、家柄も身代も格外に相違するのであるが、お杉の容貌《きりょう》を望んで婿に来たいというのである。もちろん相当の金や畑地も持参するという条件付きであるから、源兵衛夫婦は喜んで承知した。お杉にも異存はなかった。
 こうして、結納の取交しも済んだ三月なかばの或る日の夕暮れである。春といっても、ここらにはまだ雪が残っている。その寒い夕風に吹かれながら、お杉は裏手の筧《かけい》の水を汲んでいると、突然にかの黒ん坊があらわれた。彼は無言でお杉の手をひいて行こうとするのであった。
「あれ、なにをするんだよ。」と、お杉はその手を振り払った。
 多年馴れているので、彼女《かれ》は別にこの怪物を恐れてもいなかったが、きょうはその様子がふだんと変っているのに気がついた。彼は一種兇暴の相《そう》をあらわして、その目は野獣の本性を露出したように凄まじく輝いていた。それでもお杉はまだ深く彼を恐れようともしないで、そのままに自分の仕事をつづけようとすると、黒ん坊は猛然として飛びかかった。彼はお杉の腰を引っかかえて、どこへか攫《さら》って行こうとするらしいので、かれも初めて驚いて叫んだ。
「あれ、お父《とっ》さん、おっ母さん……。早く来てください。」
 その声を聞きつけて、源兵衛夫婦は内から飛んで出た。見るとこの始末で、黒ん坊はほの暗い夕闇のうちに火のような目をひからせながら、無理無体に娘を引っかかえて行こうとする。お杉は栗の大木にしがみ付いて離れまいとする。たがいに必死となって争っているのであった。
「こん畜生……。」
 源兵衛はすぐに内へ引っ返して、土間にある大きい斧《おの》を持ち出して来たかと思うと、これも野獣のように跳《おど》り狂って、黒ん坊の前に立ちふさがった。まっこうを狙って撃ちおろした斧は外《そ》れて、相手の左の頸《くび》筋から胸へかけて斜めにざくりと打ち割ったので、彼は奇怪な悲鳴をあげながら娘をかかえたままで倒れた。それでもまだ娘を放そうとはしないので、源兵衛は踏み込んで又打つと、怪物の左の手は二の腕から斬り落された。お杉はようよう振り放して逃げかかると、彼は這いまわりながら又追おうとするので、源兵衛も焦《じ》れてあせって滅多《めった》打ちに打ちつづけると、かれは更に腕を斬られ、足を打落されて、ただものすごい末期《まつご》の唸《うな》り声を上げるばかりであった。
「これだから畜生は油断がならねえ。」と、源兵衛は息をはずませながら罵《ののし》った。
「お杉をさらって行って、どうするつもりなんだろうねえ。」と、お兼は不思議そうに言った。
 その一|刹那《せつな》に謎は解けた。
 黒ん坊が娘を奪って行こうとするのは、あながちに不思議とはいえないのである。夫婦はだまって顔をみあわせた。
「おっ母さん。怖いねえ。」と、お杉は母に取りすがってふるえ出した。
 あたかもそこへ杣仲間が二人来あわせたので、源兵衛はかれらに手伝ってもらって、黒ん坊の始末をすることになった。
 彼はまだ死に切れずに唸っているので、源兵衛は研《と》ぎすました山刀を持って来てその喉笛を刺し、胸を突き透した。こうして息の絶えたのを見とどけて、三人は怪物の死骸を表へ引摺り出した。
「谷へほうり込んでしまえ。」
 前には何十丈の深い谷があるので、死骸はそこへ投げ込まれてしまった。二人が帰ったあとで、女房は小声で言った。
「おまえさんがつまらない冗談をいったから悪いんだよ。」
 源兵衛はなんにも答えなかった。

     四

 あくる朝、源兵衛は谷のほとりへ行ってみると、黒ん坊の死骸は目の下にかかっていた。二丈余りの下には松の大木が枝を突き出していた。死骸はあたかもその上に投げ落されたのである。勿論、谷底へ投げ込むつもりであったが、ゆう闇のために見当がちがって、死骸は中途にかかっていることを今朝になって発見したのである。二丈あまりではあるが、そこは足がかりもない断崖で、下は目もくらむほどの深い谷であるから、その死骸には手を着けることが出来なかった。
「畜生……。」と、源兵衛は舌打ちした。お兼もお杉も覗きに来て、互いにいやな顔をしていた。
 それはまずそれとして、さらにこの一家の心を暗くしたのは、かの縁談の一条であった。黒ん坊のことが杣仲間の口から世間にひろまると、婿の方では二の足を蹈《ふ》むようになった。源兵衛が黒ん坊にむかって冗談の約束をしたことなどは誰も知らないのであるが、なにしろ黒ん坊のような怪物に魅《みこ》まれた女と同棲するのは不安であった。その執念がどんな祟《たた》りをなさないとも限らない。又その同類に付け狙われて、どんな仕返しをされないとも限らない。婿自身ばかりでなく、その両親や親類たちも同じような不安にとらわれて、結納までも済ませた婚礼を何のかのと言い延ばしているうちに、黒ん坊の噂はそれからそれへと伝わったので、婿の家でもいよいよ忌気《いやき》がさして、その年の盂蘭盆《うらぼん》前に断然破談ということになってしまった。
 さてその黒ん坊の死骸はどうなったかというと、むろん日を経るにしたがって、その肉は腐れただれて行った。毛の生えている皮膚も他の獣《けもの》の皮とは違っているとみえて、鴉《からす》や他の鳥類についばまれた跡が次第に破れて腐れて、今はほとんど骨ばかりとなった。その骸骨も風にあおられ、雨に打たれて、ばらばらにくずれ落ちてしまったが、ただひとつ残っているのはその首の骨である。不思議といおうか、偶然といおうか、さきに木の上に投げ落されたときに、その片目を大きい枝の折れて尖っているところに貫かれたので、そればかりは骨となっても元のところにかかっているのであった。
 自分の家の前であるから、その死骸の成行きは源兵衛も朝晩にながめていた。女房や娘は毎日のぞきに行った。そうして、死骸のだんだん消えてゆくのを安心したように眺めていたが、最後の髑髏《どくろ》のみはどうしても消え失せそうもないのを見て、またなんだか忌な心持になった。何とかしてそれを打落そうとして、源兵衛は幾たびか石を投げたり枝を投げたりしたが、不思議に一度も当らないので、とうとう根《こん》負けがしてやめてしまった。婿の家からいよいよ正式に破談の通知があった夜に、その髑髏はさながら嘲り笑うようにからから[#「からから」に傍点]と鳴った。
 今までは不安ながらも一縷《いちる》の望みをつないでいたのであるが、その縁談がいよいよ破裂と定まって源兵衛夫婦の失望はいうまでもなかった。お杉は一日泣いていた。その夜、髑髏が笑い出すと共に、お杉も家をぬけ出した。そのうしろ姿を見つけて母が追って出る間もなく、若い娘は深い谷底へ飛び込んでしまって、その亡骸《なきがら》を引揚げるすべさえもないのであった。
 その以来、木の枝にかかっている髑髏は夜ごとにからから[#「からから」に傍点]と笑うのである。笑うのではない、乾いた髑髏が山風に煽《あお》られて木の枝を打つのであると源兵衛は説明したが、女房は承知しなかった。髑髏が我れわれの不幸を嘲り笑うのであると、かれは一途《いちず》に信じていた。黒ん坊の髑髏が何かの祟りでもするかのように、土地の人たちも言い囃《はや》した。
 実際、髑髏はその秋から冬にかけて、さらに来年の春かち夏にかけて、夜ごとに怪しい笑い声をつづけていた。それに悩まされて、お兼はおちおち眠られなかった。不眠と不安とが長くつづいて、かれは半気違いのようになってしまったので、源兵衛も内々注意していると、七月の盂蘭盆前、あたかもお杉が一周忌の当日に、かれは激しく狂い出した。
「黒ん坊。娘のかたきを取ってやるから、覚えていろ。」
 お兼は大きい斧を持って表へ飛び出した。それはさきに源兵衛が黒ん坊を虐殺した斧であった。
「まあ、待て。どこへ行く。」
 源兵衛はおどろいて引留めようとすると、お兼は鬼女のように哮《たけ》って、自分の夫に打ってかかった。
「この黒ん坊め。」
 大きい斧を真っこうに振りかざして来たので、源兵衛もうろたえて逃げまわった。
 その隙をみて、かれは斧をかかえたままで、身を逆さまに谷底へ跳り込んだ。半狂乱の母は
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