哀れなる娘のあとを追ったのである。
 こうして、この一つ家には父ひとりが取残された。
 しかし源兵衛は生れ付き剛気の男であった。打ちつづく不幸は彼に対する大打撃であったには相違ないが、それでも表面は変ることもなしに、今まで通りの仕事をつづけていた。この山奥に住む黒ん坊はただ一匹に限られたわけでもないのであるが、その一匹が源兵衛の斧に屠《ほふ》られて以来、すべてその影を見せなくなって、かれらの形見は木の枝にかかる髑髏一つとなった。その髑髏は源兵衛一家のほろび行く運命を嘲るように、夜毎にからから[#「からから」に傍点]という音を立てていた。
「ええ、泣くとも笑うとも勝手にしろ。」と、源兵衛はもう相手にもならなかった。
 その翌年の盂蘭盆前である。きょうは娘の三回忌、女房の一周忌に相当するので、源兵衛は下大須にあるただ一軒の寺へ墓参にゆくと、その帰り道で彼は三人の杣仲間と一人の村人に出会った。
「おお、いいところで逢った。おれの家までみんな来てくれ。」
 源兵衛は四人を連れて帰って、かねて用意してあったらしい太い藤蔓《ふじづる》を取出した。
「おれはこの蔓を腰に巻き付けるから、お前たちは上から吊りおろしてくれ。」
「どこへ降りるのだ。」
「谷へ降りて、あの骸骨めを叩き落してしまうのだ。」
「あぶないから止せよ。木の枝が折れたら大変だぞ。」
「なに、大丈夫だ。女房の仇、娘のかたきだ。あの骸骨をあのままにして置く事はならねえ。」
 何分にも屏風のように切っ立ての崖であるから、目の下にみえながら降りることが出来ない。源兵衛は自分のからだを藤蔓でくくり付けて、二丈ほどの下にある大木の幹に吊りおろされ、それから枝を伝って行って、かの髑髏を叩き落そうというのである。こうした危険な離れわざには、みな相当に馴れているのではあるが、底の知れない谷の上であるだけに、どの人もみな危ぶまずにはいられなかった。
 源兵衛も今まではさすがに躊躇していたのであるが、きょうはなんと思ったか、遮二無二《しゃにむに》その冒険を実行しようと主張して、とうとう自分のからだに藤蔓を巻いた。四人は太い蔓の端から端まで吟味して、間違いのないことを確かめた上で、岸から彼を吊り降ろすことになった。
 薄く曇った日の午《ひる》過ぎで、そこらの草の葉を吹き分ける風はもう初秋の涼しさを送っていた。髑髏も昼は黙っているのである。
 その髑髏のかかっている大木の上へ吊りおろされた源兵衛のからだは、もう四、五尺で幹に届くかと思うとき、太い蔓はたちまちにぶつりと切れて、木の上にどさりと落ちかかった。上の人々はあっ[#「あっ」に傍点]と叫んで見おろすと、彼は落ちると同時に一つの枝に取付いたのである。しかもそれが比較的に細い枝であったので、彼が取付く途端に強くたわんで、そのからだは宙にぶら下がってしまった。
「源兵衛、しっかりしろ。その手を放すな。」と、四人は口々に叫んだ。
 しかし、どうして彼を救いあげようという手だてもなかった。この場合、畚《ふご》をおろすよりほかに方法はなさそうであったが、その畚も近所には見当らないので、四人はいたずらに上から声をかけて彼に力を添えるにすぎなかった。
 源兵衛は両手を枝にかけたままで、奴凧《やっこだこ》のように宙にゆらめいているのである。その隣りの枝にはかの髑髏がかかっているので、源兵衛の枝がゆれるに誘われて、その枝もおのずと揺れると、黄いろい髑髏はからから[#「からから」に傍点]と笑った。
 細い枝は源兵衛の体量をささえかねて、次第に折れそうにたわんでゆくので、上で見ている人々は手に汗を握った。源兵衛の額にも脂汗が流れた。彼は目をとじ歯を食いしばって、一生懸命にぶら下がっているばかりで、何とも声を出すことも出来なかった。こうなっては、枝が折れるか、彼の力が尽きるか、自然の運命に任せるのほかはない。上からは無益《むやく》に藤蔓を投げてみたが、彼はそれに取りすがることも出来ないのであった。
 そのうちに枝は中途から折れた。残った枝の強くはねかえる勢いで、となりの枝も強く揺れて、髑髏はからからからから[#「からからからから」に傍点]と続けて高く笑った。源兵衛のすがたは谷底の靄にかくれて見えなくなった。上の四人は息を呑んで突っ立っていた。

 源兵衛の一家はこうして全く亡び尽くした。娘の死んだとき、女房の死んだとき、源兵衛はそれを鎌倉へ通知してやらなかったらしいが、こうして一家が全滅してしまった以上、無沙汰にして置くのはよろしくあるまいというので、村の人々から初めて鎌倉へ知らせてやると、せがれの源蔵は早々に戻って来た。
 源蔵も今は源光《げんこう》といって、立派な僧侶となっているのであった。棄恩入無為《きおんじゅむい》といいながら、源光はおのが身の修業にのみ魂を打込んで、一度も故郷へ帰らなかったことを深く悔んだ。
「あの髑髏がおのずと朽ちて落ちるまでは、決してここを離れませぬ。」と、彼は誓った。
 両親や妹の菩提《ぼだい》を弔うだけならば、必ずしもここに留まるにも及ばないが、悲しむべく怖るべきはかの髑髏である。
 如是畜生発菩提心《にょぜちくしょうほつぼだいしん》の善果をみるまでは、自分はここを去るまいと決心して、彼はこの空家に蹈みとどまることにした。そうして、丸三年の今日まで読経《どきょう》に余念もないのであるが、髑髏はまだ朽ちない、髑髏はまだ落ちない、髑髏はまだ笑っているのである。
 彼が三年、五年、十年、あるいは一生ここにとどまるかも知れないと覚悟しているのも、それがためであろう。
 この長物語を終って、老人はまた嘆息した。
「あまりお気の毒だから、いっそ畚をおろして何とか骸骨を取りのけてしまおうと言い出した者もあるのだが、息子の坊さまは承知しないで、まあ自分にまかせて置いてくれというので、そのままにしてあるのだ。」
 叔父も溜息をついて別れた。

 その晩は上大須の村に泊ると、夜中から山も震うような大あらしになった。
 この風雨がかの枝を吹き折るか、かの髑髏を吹き落すか。かの僧は風雨にむかって読経をつづけているか。――叔父は寝もやらずに考え明かしたそうである。



底本:「鷲」光文社文庫、光文社
   1990(平成2)年8月20日初版1刷発行
初出:「文藝倶楽部」
   1925(大正14)年7月
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2006年10月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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