くろん坊
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)享和《きょうわ》雑記
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|丈《じょう》も
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)うけたまわって [#「うけたまわって 」はママ]
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一
このごろ未刊随筆百種のうちの「享和《きょうわ》雑記」を読むと、濃州《のうしゅう》徳山くろん坊の事という一項がある。何人《なんぴと》から聞き伝えたのか知らないが、その附近の地理なども相当にくわしく調べて書いてあるのを見ると、全然架空の作り事でもないらしく思われる。元来ここらには黒ん坊の伝説があるらしく、わたしの叔父もこの黒ん坊について、かつて私に話してくれたことがある。若いときに聞かされた話で、年を経るままに忘れていたのであるが、「享和雑記」を読むにつけて、古い記憶が図らずもよみがえったので、それを機会に私もすこしく「黒ん坊」の怪談を語りたい。
江戸末期の文久二年の秋――わたしの叔父はその当時二十六歳であったが、江戸幕府の命令をうけて美濃《みの》の大垣へ出張することになった。大垣は戸田氏十万石の城下で、叔父は隠密の役目をうけたまわって [#「うけたまわって 」はママ]幕末における大垣藩の情勢を探るために遣わされたのである。隠密であるから、もちろん武士の姿で入り込むことは出来ない。叔父は小間物を売る旅商人《たびあきんど》に化けて城下へはいった。
八月から九月にかけてひと月あまりは、無事に城下や近在を徘徊《はいかい》して、商売《あきない》のかたわらに職務上の探索に努めていたのであるが、叔父の不注意か、但しは藩中の警戒が厳重であったのか、いずれにしても彼が普通の商人でないということを睨《にら》まれたらしいので、叔父の方でも大いに警戒しなければならなくなった。その時代の習いとして、どこの藩でも隠密が入り込んだと覚《さと》れば、彼を召捕るか、殺すか、二つに一つの手段をとるに決まっているのであるから、叔父は早々に身を隠して、その危難を逃がれるのほかはなかった。
しかし本街道をゆく時は、敵に追跡されるおそれがあるので、叔父は反対の方角にむかって、山越しに越前の国へ出ようと企てた。その途中の嶮《けわ》しいのはもちろん覚悟の上である。およそ十里ほども北へたどると、外山《とやま》村に着く。そこまでは牛馬も通うのであるが、それからは山路がいよいよ嶮しくなって、糸貫川――土地ではイツヌキという。古歌にもいつぬき川と詠まれている。享和雑記には泉除《いずのき》川として一種の伝説を添えてある。――その山川の流れにさかのぼって根尾村に着く。ここらは鮎《あゆ》が名物で、外山から西根尾まで三里のあいだに七ヵ所の簗《やな》をかけて、大きい鮎を捕るのである。根尾から大字《おおあざ》小鹿、松田、下大須《しもおおす》、上大須を過ぎ、明神山から屏風《びょうぶ》山を越えて、はじめて越前へ出るのであるが、そのあいだに上り下りの難所の多いことは言うまでもない。
叔父は足の達者な方であったが、なんといっても江戸育ちであるから、毎日の山道に疲れ切って、道中は一向にはかどらない。もう一里ばかりで下大須へたどり着くころに、九月の十七日は暮れかかって奥山のゆう風が身にしみて来た。糸貫川とは遠く離れてしまったのであるが、路の一方には底知れぬほどの深い大きい谷がつづいていて、夕靄《ゆうもや》の奥に水の音がかすかに聞える。あたりはだんだんに暗くなる、路はいよいよ迫って来る。誤ってひと足踏み損じたら、この絶壁から真っ逆さまに投げ込まれなければならないことを思うと、かねて覚悟はしていながらも、叔父はこんな難儀の道をえらんだことを今更に後悔して、いっそ運を天にまかせて本街道をたどった方がましであったかなどとも考えるようになった。
さりとて元へ引っ返すわけにも行かないので、疲れた足をひきずりながら、心細くも進んでゆくと、ここらは霜が早いとみえて、路ばたのすすきも半分は枯れていた。その枯れすすきのなかに何だか細い路らしいものがあるので、何ごころなく透かしてみると、そこの一面に生い茂っているすすきの奥に五、六本の橡《とち》や栗の大木に取り囲まれた小屋のようなものが低くみえた。
「ともかくも行ってみよう。」
すすきをかき分けて踏み込んでみると、果たしてそれは一軒の人家で表の板戸はもう閉めてある。その板戸の隙間《すきま》からのぞくと、まだ三十を越えまいかと思われる一人の若い僧が仏前で経を読んでいるらしく、炉には消えかかった柴の火が弱く燃えていた。
戸をたたいて案内を乞うと、僧は出て来た。叔父は行き暮らした旅商人であることを告げて、ちっとの間ここに休ませてくれまいかと頼むと、僧はこころよく承知して内へ招じ入れた。彼は炉の火を焚きそえて、湯を沸かして飲ませてくれた。
「この通りの山奥で、朝夕はずいぶん冷えます。それでもまだこの頃はよろしいが、十一月十二月には雪がなかなか深くなって、土地なれぬ人にはとても歩かれぬようになります。」
「雪はどのくらい積もります。」
「年によると、一|丈《じょう》も積もることがあります。」
「一丈……。」と、叔父もすこし驚かされた。まったく今頃だからいいが、冬にむかって迂濶《うかつ》にこんな山奥へ踏み込んだらば、飛んだ目に逢うところであったと、いよいよ自分の無謀を悔むような気になった。
「お前、ひもじゅうはござらぬか。」と、僧は言った。「なにしろ五穀の乏《とぼ》しい土地で、ここらでは麦を少しばかり食い、そのほかには蕎麦《そば》や木の実を食っておりますが、わたしの家には麦のたくわえはありませぬ。村の人に貰《もろ》うた蕎麦もあいにくに尽きてしまいました。木の実でよろしくば進ぜましょう。」
彼は木の実を盆に盛って出した。それは橡《とち》の実で、そのままで食ってはすこぶるにがいが、灰汁《あく》にしばらく漬けておいて、さらにそれを清水にさらして食うのであると説明した。空腹の叔父はこころみに一つ二つを取って口に入れると、その味は甘く軽く、案外に風味のよいものであったので、これは結構と褒めた上で、遠慮なしにむさぼり食っているのを、僧はやさしい眼をして興《きょう》あるように眺めていた。
「おまえはお江戸でござりますか。」と、僧は訊《き》いた。
「さようでございます。」
「わたしもお江戸へは三度出たことがありましたが、実に繁昌の地でござりますな。」
「三度も江戸へお下りになったのでございますか。」
「はい。しばらく鎌倉におりましたので……。」と、僧はむかしを偲《しの》び顔に答えた。
「道理で、あなたのお言葉の様子がここらの人たちとは違っていると思いました。」と、叔父はうなずいた。
「そうかも知れませぬ。しかし、わたしはこの土地の生れでござります。しかもここの家で生れたのでござります。」
彼はうつむいて、そのやさしい眼を薄くとじた。その顔には一種の暗い影を宿しているようにも見られた。叔父は又訊いた。
「では、鎌倉へは御修業にお出でなされたのでございますか。」
「わたしが十一のときに、やはり大垣から越前を越えてゆくという旅の出家が一夜の宿をかりました。その出家がわたしの顔をつくづく見て、おまえも出家になるべき相《そう》がある。いや、どうしても出家にならなければならぬ運命があらわれている。わたしと一緒に鎌倉へ行って、仏門の修業をやる気はないかと言われたのでござります。わたしはまだ子供で世間の恋しい時でもあり、かねて名を聞いている鎌倉というところへ行ってみたさに、その出家に連れて行ってもらうことにしました。親たちもまたこんな山奥に一生を送らせるよりも、京鎌倉へ出してやった方が当人の行く末のためでもあろう。たとい氏素姓《うじすじょう》のない者でも、修業次第であっぱれな名僧智識にならぬとも限らぬと、そんな心から承知してわたしを手離すことになったのでした。あとで知ったのですが、その出家は鎌倉でも五山《ござん》の一つという名高い寺のお住持で、京登りをした帰り路に、山越えをして北陸道を下らるる途中であったのです。お師匠さま――わたしはそのあくる日からお弟子になったのです――は私をつれて、越前から加賀、能登、越中、越後を経て、上州路からお江戸へ出まして……。いや、こんなことはくだくだしく申上げるまでもありませぬ。わたしはその時に初めてお江戸を見物しまして、七日あまり逗留の後に鎌倉へ帰り着きました。それからその寺で足掛け十六年、わたしが二十六の年まで修業を積みまして、生来|鈍根《どんこん》の人間もまず一人並の出家になり済ましたのでござります。」
生来鈍根と卑下しているが、彼の人柄といい物の言い振りといい、決して愚かな人物とはみえない。しかも鎌倉の名刹《めいさつ》で十六年の修業を積みながら、たとい故郷とはいえ、若い身空でこんな山奥に引籠っているのは、何かの子細《しさい》がなくてはならないと叔父は想像した。
「それで、唯今ではここにお住居でございますか。再び鎌倉へお戻りにならないのでございますか。」
「当分は戻られますまい。」と、僧は答えた。「ここへ帰って来て丸三年になります。これから三年、五年、十年……。あるいは一生……。鎌倉はおろか、他国の土を踏むことも出来ぬかも知れませぬ。」
「御両親は……。」と、叔父は訊いた。
「父も母もこの世にはおりませぬ。ほかに一人の妹がありましたが、これも世を去りました。」
と、僧は暗然として仏壇をみかえった。
「どなたもお留守のあいだに、お亡くなりになったのでございますか。」
「そうでござります。」と、僧は低い溜息をついた。「妹はわたしの二十四の年に歿しました。その翌年に母が亡くなりました。又その翌年に父が死にました。」
「三年つづいて……。」と、叔父も思わず眉をよせた。
「はい、三年のうちに両親と妹がつづいて世を去ったのでござります。なにしろこんな辺鄙《へんぴ》なところですから、鎌倉への交通などは容易に出来るものではなく、父からは何の便りもありませんので、妹のことも母の事もわたしはちっとも知らずにおりました。それでも父の死んだ時には村の人々から知らせてくれましたので、おどろいで早々に帰ってみますと、母も妹も、もうとうに死んでいるということが初めて判りました。わたしはいよいよ驚きました。」
「ごもっともで……。お察し申します。」と、叔父も同情するようにうなずいた。「それから引きつづいてここにおいでになるのでございますか。」
「両親はなし、妹はなし、こんなあばら家一軒、捨てて行っても惜しいことはないのですが……。ある物に引留められて、どうしてもここを立去ることが出来なくなりました。唯今も申す通り、三年、五年、十年……。あるいは一生でも……。その役目を果たさぬうちは、ここを動くことが出来なくなったのでござります。」
ある物に引留められて――その謎のような言葉の意味が叔父には判らなかった。あるいは両親や妹の墓を守るという事かとも思ったが、それならば当分といい、又は三年五年などという筈《はず》もあるまい。寂父はただ黙って聞いていると、僧もその以上の説明をつけ加えなかった。
二
叔父はその晩、そこに泊めてもらうことになった。初めにそれを言い出したときに、僧は迷惑そうな顔をして断わった。
「これから下大須までは一里余りで、そこまで行けば十五、六軒の人家もあります。旅の人のひとりや二人を泊めてくれるに不自由のない家もあります。お疲れでもあろうが、辛抱してそこまでお出でなされたがよろしゅうござります。」
しかし叔父は疲れ切っていた。殊に平地でもあることか、この嶮しい山坂をこれから一里あまりも登り降りするのは全く難儀であるので、叔父はその事情を訴えて、どんな隅でもいいから今夜だけはここの家根の下においてくれと頼んだ。
「何分にも土地不案内の夜道でございますから、ひと足踏みはずしたら、深い谷底へ真っ逆さまに転《ころ》げ落ちるかも知れません。わたく
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