しをお助け下さると思召《おぼしめ》して、どうぞ今夜だけは……。」と、叔父は繰返して言った。
深い谷底――その一句をきいたときに、僧の顔色は又曇った。彼はうつむいて少し思案しているようであったが、やがてしずかに言い出した。
「それほどに言われるものを無慈悲にお断わり申すわけには参りますまい。勿論、夜の物も満足に整うてはおりませぬが、それさえ御承知ならばお泊め申しましょう。」
「ありがとうございます。」と、叔父はほっ[#「ほっ」に傍点]として頭を下げた。
「それからもう一つ御承知をねがっておきたいのは、たとい夜なかに何事があっても、かならずお気にかけられぬように……。しかし熊や狼のたぐいはめったに人家へ襲って来るようなことはありませぬから、それは決して御心配なく……。」
叔父は承知して泊ることになった。寝るときに僧は雨戸をあけて表をうかがった。今夜は真っ暗で星ひとつ見えないと言った。こうした山奥にはありがちの風の音さえもきこえない夜で、ただ折りおりにきこえるのは、谷底に遠くむせぶ水の音と、名も知れない夜の鳥の怪しく啼き叫ぶ声が木霊《こだま》してひびくのみであった。更けるにつれて、霜をおびたような夜の寒さが身にしみて来た。
「おまえはお疲れであろう、早くお休みなさい。」
叔父には寝道具を出してくれて、僧はふたたび仏壇の前に向き直った。彼は低い声で経を読んでいるらしかった。叔父はふだんでもよく眠る方である。殊に今夜はひどく疲れているのであるが、なんだか眼がさえて寝つかれなかった。あるじの僧に悪気《わるぎ》のないのは判っている上に、熊や狼の獣《けもの》もめったに襲って来ないという。それでも叔父の胸の奥には言い知れない不安が忍んでいるのであった。
僧はある物に引留められて、ここに一生を送るかも知れないと言った。その「ある物」の意味を彼は考えさせられた。僧は又たとい何事があっても気にかけるなと言った。その「何事」の意味も彼は又かんがえた。所詮《しょせん》はこの二つが彼に一種の不安をあたえ、また一種の好奇心をそそって、今夜を安々と眠らせないのである。
前者は僧の一身上に関することで、自分に係合いはないのであるが、後者は自分にも何かの係合いがあるらしい。それなればこそ僧も一応は念を押して、自分に注意をあたえてくれたのであろう。山奥や野中の一軒家などに宿りを求めて、種々の怪異に出逢ったというような話は、昔からしばしば伝えられているが、ここにも何かそんな秘密がひそんでいるのではあるまいか。
そう思えば、あるじの僧は見るところ柔和《にゅうわ》で賢《さか》しげであるが、その青ざめた顔になんとなく一種の暗い影をおびているようにも見られる。自分が一宿《いっしゅく》を頼んだときにも、彼は初めの親切にひきかえてすこぶる迷惑そうな顔をみせた。それにも何かの子細がありそうである。叔父は眠った振りをしながら、時どきに薄く眼をあいてうかがうと、僧はほとんど身動きもしないように正しく坐って、一心に読経を続けているらしかった。炉の火はだんだんに消えて、暗い家のなかにかすかに揺れているのは仏前の燈火《あかし》ばかりである。
時の鐘など聞えないので、今が何どきであるか判らないが、もう真夜中であろうかと思われる頃に、僧はにわかに立上がって、叔父の寝息を窺《うかが》うようにちょっと覗《のぞ》いて、やがて音のせぬように雨戸をそっと開けたらしい。叔父は表をうしろにして寝ていたので、その挙動を確かに見届けることは出来なかったが、彼は藁草履《わらぞうり》の音を忍ばせて、表へぬけ出して行くように思われた。風のない夜ではあるが、彼が雨戸をあけて又しめるあいだに、山気《さんき》というか、夜気というか、一種の寒い空気がたちまち水のように流れ込んで、叔父の掛け蒲団の上をひやりと撫《な》でて行ったかと思う間もなく、仏前の燈火は吹き消されたように暗くなってしまった。
掛け蒲団を押しのけて、叔父もそっと這《は》い起きた。手探りながらに雨戸をほそ目にあけて窺うと、表は山霧に包まれたような一面の深い闇である。僧はすすきをかき分けて行くらしく、そのからだに触れるような葉摺れの音が時どきにかさかさと聞えた。と思う時、さらに一種異様の声が叔父の耳にひびいた。何物かが笑うような声である。
何とはなしにぞっ[#「ぞっ」に傍点]として、叔父はなおも耳をすましていると、それはどうしても笑うような声である。しかも生きた人間の声ではない。さりとて猿などの声でもないらしい。何か乾いた物と堅い物とが打合っているように、あるいはかちかち[#「かちかち」に傍点]と響き、あるいはからから[#「からから」に傍点]とも響くらしいが、又あるときには何物かが笑っているようにも聞えるのである。その笑い声――もしそれが笑い声であるとすれば、決して愉快や満足の笑い声ではない。冷笑とか嘲笑とかいうたぐいの忌《いや》な笑い声である。いかにも冷たいような、うす気味の悪い笑い声である。その声はさのみ高くもないのであるが、深夜の山中、あたりが物凄いほど寂寞《せきばく》としているので、その声が耳に近づいてからから[#「からから」に傍点]と聞えるのである。それをじっと聞いているうちに、肉も血もおのずと凍るように感じられて、骨の髄までが寒くなって来たので、叔父は引っ返して蒲団の上に坐った。
僧が注意したのはこれであろう。僧はこの声を他人に聞かせたくなかったのであろうと、叔父は推量した。この声は一体なんであるか。僧はこの声に誘われて、表へ出て行ったらしく思われるが、この声と、かの僧とのあいだにどういう関係がつながっているのか、叔父には容易に想像がつかなかった。自分ばかりでなく、誰にもおそらく想像はつくまいと思われた。そんなことを考えている間にも、怪しい声はあるいは止み、あるいは聞えた。
「おれも武士だ。なにが怖い。」
いっそ思い切ってその正体を突き留めようと、叔父は蒲団の下に入れてある護身用の匕首《あいくち》をさぐり出して、身づくろいして立ちかけたが、又すこし躇躊《ちゅうちょ》した。前にもいう通り、この声と、かの僧との関係がはっきりしない以上、みだりに邪魔に出てよいか悪いか。自分が突然飛び出して行ったがために、僧が何かの迷惑を感じるようでも気の毒である。僧もそれを懸念《けねん》して、あらかじめ自分に注意したらしいのであるから、自分も騒がず、人をも驚かさず、何事も知らぬ顔をして過すのが、一夜の恩に報いるゆえんではあるまいか。こう思い直して叔父はまた坐った。
僧はどこへ行って何をしているのか、いつまでも戻らなかった。怪しい声も時どきに聞えた。どう考えても、何かの怪物が歯をむき出して嘲《あざけ》り笑っているような、気味の悪い声である。もしや空耳《そらみみ》ではないかと、叔父は自分の臆病を叱りながら幾たびか耳を引っ立てたが、聞けば聞くほど一種の鬼気《きき》が人を襲うように感じられて、しまいには聞くに堪えられないように恐ろしくなって来た。
「ええ、どうでも勝手にしろ。」
叔父は自棄《やけ》半分に度胸を据えて、ふたたび横になった。以前のように表をうしろにして、左の耳を木枕に当て、右の耳の上まで蒲団を引っかぶって、なるべくその声を聞かないように寝ころんでいると、さすがに一日の疲れが出て、いつかうとうとと眠ったかと思うと、このごろの長い夜ももう明けかかって、戸の隙間から暁のひかりが薄白く洩れていた。
僧は起きていた。あるいは朝まで眠らなかったのかも知れない。いつの間にか水を汲んで来て、湯を沸かす支度などをしていた。炉にも赤い火が燃えていた。
「お早うございます。つい寝すごしまして……。」と、叔父は挨拶した。
「いや、まだ早うございます。ゆるゆるとおやすみなさい。」と、僧は笑いながら会釈《えしゃく》した。気のせいか、その顔色はゆうべよりも更に蒼ざめて、やさしい目の底に鋭いような光りがみえた。
家のうしろに筧《かけい》があると教えられて、叔父は顔を洗いに出た。ゆうべの声は表の方角にきこえたらしいので、すすきのあいだから伸びあがると、狭い山道のむこうは深い谷で、その谷を隔てた山々はまだ消えやらない靄《もや》のうちに隠されていた。教えられた通りに裏手へまわって、顔を洗って戻って来ると、僧は寝道具のたぐいを片付けて、炉のそばに客の座を設けて置いてくれた。叔父はけさも橡の実を食って湯を飲んだ。
「いろいろ御厄介になりました。」
「この通りの始末で、なんにもお構い申しませぬ。ゆうべはよく眠られましたか。」と、僧は炉の火を焚き添えながら訊いた。
「疲れ切っておりましたので、枕に頭をつけたが最後、朝までなんにも知らずに寝入ってしまいました。」と、叔父は何げなく笑いながら答えた。
「それはよろしゅうござりました。」と、僧も何げなく笑っていた。
そのあいだにも叔父は絶えず注意していたが、怪しい笑い声などはどこからも聞えなかった。
三
一宿《いっしゅく》の礼をあつく述べて叔父は草鞋《わらじ》の緒をむすぶと、僧はすすきを掻きわけて、道のあるところまで送って来た。そのころには夜もすっかり明け放れていたので、叔父は再び注意してあたりを見まわすと、道の一方につづいている谷は、きのうの夕方に見たよりも更に大きく深かった。岸は文字通りの断崖絶壁で、とても降《くだ》るべき足がかりもないが、その絶壁の中途からはいろいろの大木が斜めに突き出して、底の見えないように枝や葉を繁らせていた。
別れて十間ばかり行き過ぎて振り返ると、僧は朝霜の乾かない土の上にひざまずいて、谷にむかって合掌しているらしかった。怪しい笑い声は谷の方から聞えたのであろうと叔父は想像した。
下大須まで一里あまりということであったが、実際は一里半を越えているように思われた。登り降りの難所を幾たびか過ぎて、ようようにそこまで行き着くと、果たして十五、六軒の人家が一部落をなしていて、中には相当の大家内《おおやない》らしい住居も見えた。時刻がまだ早いとは思ったが、上大須まで一気にたどるわけにはいかないので、叔父はそのうちの大きそうな家に立寄って休ませてもらうと、ここらの純朴な人たちは見識らない旅人をいたわって、隔意《かくい》なしにもてなしてくれた。近所の人々もめずらしそうに寄り集まって来た。
「ゆうべはどこにお泊りなされた。松田からでは少し早いようだが……。」と、そのうちの老人が訊いた。
「ここから一里半ほども手前に一軒家がありまして、そこに泊めてもらいました。」
「坊さまひとりで住んでいる家《うち》か。」
人々は顔をみあわせた。
「あの御出家はどういう人ですね。以前は鎌倉のお寺で修業したというお話でしたが……。」
と、叔父も人々の顔を見まわしながら訊いた。
「鎌倉の大きいお寺で十六年も修業して、相当の一ヵ寺の住職にもなられるほどの人が、こんな山奥に引っ込んでしまって……。考えれば、お気の毒なことだ。」と、老人は心から同情するように溜息をついた。「これも何かの因縁というのだろうな。」
ゆうべの疑いが叔父の胸にわだかまっていたので、彼は探るように言い出した。
「御出家はまことにいい人で、いろいろ御親切に世話をしてくださいましたが、ただ困ったことには、気味の悪い声が夜通しきこえるので……。」
「ああ、おまえもそれを聞きなすったか。」と、老人はまた嘆息した。
「あの声は、……。あの忌《いや》な声はいったいなんですね。」
「まったく忌《いや》な声だ。あの声のために親子三人が命を取られたのだからな。」
「では、両親も妹もあの声のために死んだのですか。」と、叔父は思わず目をかがやかした。
「妹のことも知っていなさるのか。では、坊さまは何もかも話したかな。」
「いいえ、ほかにはなんにも話しませんでしたが……。してみると、あの声には何か深い訳があるのですね。」
「まあ、まあ、そうだ。」
「そこで、その訳というのは……。」と、叔父は畳みかけて訊いた。
「さあ。そんなことをむやみに言っていいか悪いか。どうした
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