発端であるから、十郎五郎の兄弟よりも工藤の方が先手であるという理窟にもなる。
それからまた、文治《ぶんじ》五年九月に奥州の泰衡《やすひら》がほろびると、その翌年、すなわち建久元年の二月に、泰衡の遺臣|大河次郎重任《おおかわじろうしげとう》(あるいは兼任《かねとう》という)が兵を出羽《でわ》に挙げた。その宣言に、むかしから子が親のかたきを討ったのはある、しかも家来が主君の仇《あだ》を報いたのはない。そこで、おれが初めて主君のかたき討をするのであるといっている。勿論かれは奥州の田舎侍で、世間のことを何にも知らず、勝手の熱を吹いているのであるが、建久元年といえば曾我兄弟の復讎以前――曾我の復讎は建久四年――である。その当時の彼が昔から親のかたきを討った者はあると公言しているのを見ると、曾我兄弟以前にもその種のかたき討はいくらもあったらしい。家来のかたき討も大河次郎が始めではない。
いずれにしても、昔のかたき討は一種の暗殺か、あるいは吊合戦《とむらいがっせん》といったようなもので、それがいわゆる「かたき討」の形式となって現れて来たのは、元亀《げんき》天正《てんしょう》以後のことであるらしい
前へ
次へ
全8ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング