。殊《こと》に徳川時代に入《い》っていよいよ盛《さかん》になったのは誰《たれ》も知る通りである。しかもそれが最も行われたのは享保《きょうほう》以前のことで、その後はかたき討もよほど衰えた。
幕府の方針として、かたき討を公然禁止したわけではないが、決して奨励してはいなかった。なるべくは私闘を止めさせたいのが幕府の趣意であった。しかも已《すで》にかたき討をしてしまった者に対しては別に咎《とが》めるようなこともなかったから、やはりかたき討は絶えなかったのである。
◇
幕府直轄の土地には殆《ほとん》どその例を聞かないようであるが、藩地ではかたき討の願書を差出して許可されたのもあるらしい。それについて毎々議論の出ることは、ここに一定の場所を定め、竹矢来などを結いまわして仇討の勝負をさせる。その場合にかたきの方が勝ったらばどうなるかということである。已にかたき討を許可した以上、一方が返り討にされては困る。どうしても仇の方を負けさせなければならない。
それがために、その前夜はかたきの方を眠らせないとか、あるいは水盃《みずさかずき》に毒を入れて飲ませるとか、種々の臆説を伝える者もあ
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