るが、そんなことはしなかったに相違ない。万一かたきが勝った場合には、その藩中で腕におぼえのある者が武士は相身互い、義によって助力するとかいって斬って来る。首尾よくそれを斬伏せたところで、入れ代って二番手三番手が撃ち込んで来れば、結局疲れて仆《たお》れるにきまっている。こんなわけで、已にかたきという名を附けられた以上、たとい相手をかえり討にしても、生きて還されないことになっているらしい。
 しかし芝居や講談にあるような、竹矢来結いまわしのかたき討などは実際めったになかったであろう。幕末になっては、幕臣は勿論、各藩士といえども、かたき討のために暇《いとま》を願うということは許されなかった。わたしの父の知人で、虎の門の内藤家の屋敷にいる者が朋輩《ほうばい》のために兄を討たれた。かたきはすぐに逐電《ちくでん》したので、その弟からかたき討のねがいを差出したが、やはり許可されなかった。ただし兄の遺骨をたずさえて帰国することを許された。内藤家の藩地は日向の延岡であるが、その帰国の途中、高野山その他の仏寺を遍歴参拝することは苦しからずということであった。要するに仏事参拝にかこつけて、かたきのゆくえ捜索を黙許されたもので、それは非常の恩典であると伝えられたそうである。それとても江戸から九州までの道筋に限られていることで、全然方角ちがいの水戸や仙台へは足を向けられないわけであった。果してそのかたきは知れずに終った。

     ◇

 錦花氏のいわれた通り、亀山の仇討は元禄曾我と唄われながらもその割に栄《は》えないのは、石井兄弟のために少しく気の毒でもある。しかもそういう意味の幸不幸は他にいくらもある。現に浄瑠璃坂の仇討のごときは、それが江戸の出来事でもあり、多人数が党を組んでの討入りでもあり、現に大石内蔵助の吉良家討入りは浄瑠璃坂の討入りを参考にしたのであると伝えられている位であるが、どうもそれがぱっ[#「ぱっ」に傍点]としない。事件が京阪に関係がないので、浄瑠璃坂も浄瑠璃に唄われず、人形にも仕組まれず、闇から闇へ葬られた形になってしまった。よし原の秋篠なども芝居になりそうでならない。もっとも「女郎花由縁助刀《おみなえしゆかりのすけだち》」という丸本《まるほん》にはなっているが、芝居や講談の方には採用されず、したがってあまりに知られていないらしい。
 なんといっても、かたき討は大石内
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