発端であるから、十郎五郎の兄弟よりも工藤の方が先手であるという理窟にもなる。
 それからまた、文治《ぶんじ》五年九月に奥州の泰衡《やすひら》がほろびると、その翌年、すなわち建久元年の二月に、泰衡の遺臣|大河次郎重任《おおかわじろうしげとう》(あるいは兼任《かねとう》という)が兵を出羽《でわ》に挙げた。その宣言に、むかしから子が親のかたきを討ったのはある、しかも家来が主君の仇《あだ》を報いたのはない。そこで、おれが初めて主君のかたき討をするのであるといっている。勿論かれは奥州の田舎侍で、世間のことを何にも知らず、勝手の熱を吹いているのであるが、建久元年といえば曾我兄弟の復讎以前――曾我の復讎は建久四年――である。その当時の彼が昔から親のかたきを討った者はあると公言しているのを見ると、曾我兄弟以前にもその種のかたき討はいくらもあったらしい。家来のかたき討も大河次郎が始めではない。
 いずれにしても、昔のかたき討は一種の暗殺か、あるいは吊合戦《とむらいがっせん》といったようなもので、それがいわゆる「かたき討」の形式となって現れて来たのは、元亀《げんき》天正《てんしょう》以後のことであるらしい。殊《こと》に徳川時代に入《い》っていよいよ盛《さかん》になったのは誰《たれ》も知る通りである。しかもそれが最も行われたのは享保《きょうほう》以前のことで、その後はかたき討もよほど衰えた。
 幕府の方針として、かたき討を公然禁止したわけではないが、決して奨励してはいなかった。なるべくは私闘を止めさせたいのが幕府の趣意であった。しかも已《すで》にかたき討をしてしまった者に対しては別に咎《とが》めるようなこともなかったから、やはりかたき討は絶えなかったのである。

     ◇

 幕府直轄の土地には殆《ほとん》どその例を聞かないようであるが、藩地ではかたき討の願書を差出して許可されたのもあるらしい。それについて毎々議論の出ることは、ここに一定の場所を定め、竹矢来などを結いまわして仇討の勝負をさせる。その場合にかたきの方が勝ったらばどうなるかということである。已にかたき討を許可した以上、一方が返り討にされては困る。どうしても仇の方を負けさせなければならない。
 それがために、その前夜はかたきの方を眠らせないとか、あるいは水盃《みずさかずき》に毒を入れて飲ませるとか、種々の臆説を伝える者もあ
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