しろを向いて、フラスコを持ったまゝ向ふへ行ってしまひました。紳士は
「弱ったなあ、あしたは僕は陸軍の獣医たちと大事な交際があるんだ。こんなことになっちゃ、まるで向ふの感情を害するだけだ。困ったなあ。」と云ひながら、ずんずん赤くはれて行く頬《ほほ》を鏡で見てゐました。向ふで親方がまだ腹が立ってゐると見えて、斯《か》う云ったのです。
「なあに毒蛾なんか、市中|到《いた》る処《ところ》に居るんだ。私の店だけに来たんぢゃないんだ。毒蛾についちゃこっちに何の責任もないんだ。」
 紳士は、渋々《しぶしぶ》、又椅子に座って、
「おい、早くあとをやってしまって呉《く》れ早く。」と云ひました。そして、しきりに変な形になって行く顔を気にしながら、残りの半分のひげを剃《そ》らせてゐました。
 私の方のアーティストは、しきりに時計を見ました。そして無暗《むやみ》に急ぎました。
 まるで私の顔などは、二十五秒ぐらゐで剃ってしまったのです。剃刀《かみそり》がスキーをやるやうに滑《すべ》るのです。その技術には全く感心しましたが、又よほど恐《こは》かったのです。
「さあお洗ひいたしませう。」
 私は、大理石の洗面器の
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