》を入れてゐたのです。
「ははあ、毒蛾《どくが》を殺す為《ため》ですね。」私はアーティストに斯《か》う言ひました。
「さやうでございます。」アーティストは、私の頭に、金口の瓶《びん》から香水をかけながら答へました。それからアーティストは、私の顔をも一度よく拭《ぬぐ》って、それから戸口の方をふり向いて、
「さあ、出来たよ、ちょっとみんな見て呉れ。」と云ひました。アーティストたちは、あるいは戸口に立ち、あるいはたき火のそばまで行って、外の景色をながめてゐましたが、この時大急ぎでみんな私のうしろに集まりました。そして鏡の中の私の顔を、それはそれは真面目《まじめ》な風で検《しら》べました。
「いゝやうだね。」アーティストたちは口口に言ひました。私はそこで椅子《いす》から立ちました。銀貨を一枚払ひました。そしてその大きなガラスの戸口から外の通りに出たのです。
外へ出て見て、私は、全くもう一度、変な気がして、胸の躍るのをやめることができませんでした。さうでせう、マリオの市のやうな大きな西洋造りの並んだ通りに、電気が一つもなくて、並木のやなぎには、黄いろの大きなラムプがつるされ、みちにはまっ赤な火がならび、そのけむりはやさしい深い夜の空にのぼって、カシオピイアもぐらぐらゆすれ、琴座も朧《おぼろ》にまたゝいたのです。どうしてもこれは遙《はる》かの南国の夏の夜の景色のやうに思はれたのです。私はひとりホクホクしながら通りをゆっくり歩いて行きました。いろいろな羽虫が本当にその火の中に飛んで行くのも私は見ました。また、繃帯《はうたい》をしたり、きれを顔にあてたりしながら、まちの人たちが火をたいてゐるのも見ました。
そのうちに、私は向ふの方から、高い鋭い、そして少し変な力のある声が、私の方にやって来るのを聞きました。だんだん近くなりますと、それは頑丈《ぐわんぢやう》さうな変に小さな腰の曲ったおぢいさんで、一枚の板きれの上に四本の鯨油蝋燭《げいゆらふそく》をともしたのを両手に捧げてしきりに斯《か》う叫んで来るのでした。
「家の中の燈火《あかり》を消せい。電燈を消してもほかのあかりを点《つ》けちゃなんにもならん。家の中のあかりを消せい。」
あかりをつけてゐる家があるとそのおぢいさんはいちいちその戸口に立って叫ぶのでした。
「家の中のあかりを消せい。電燈を消してもほかのあかりをつけちゃなんにもならん。家の中のあかりを消せい。」その声はガランとした通りに何べんも反響してそれから闇《やみ》に消えました。
この人はよほどみんなに敬はれてゐるやうでした。どの人もどの人もみんな叮寧におじぎをしました。おぢいさんはいよいよ声をふりしぼって叫んで行くのでした。
「家の中のあかりを消せい。電燈を消してもほかのあかりをつけちゃなんにもならん。家の中のあかりを消せい。いや、今晩は。」叫びながら右左の人に挨拶《あいさつ》を返して行くのでした。
「あの人は何ですか。」私は一人の町の人にたづねました。
「撃剣の先生です。」その人は答へました。
「あの床屋のアセチレンも消されるぞ。今度は親方も、とても敵《かな》ふまい。」私はひとりで哂《わら》ひました。それからみちを三四遍きいて、ホテルに帰りました。室《へや》にはほんの小さな蝋燭《らふそく》が一本|点《つ》いて、その下に扇風機が置いてありました。私は扇風機をかけ、気持よく休み、それから給仕が来て「お食事は」とたづねましたので牛乳を持って来て貰《もら》って、それを呑《の》んでゐるうちに、電燈も又点きましたから、あしたの仕度を少しして、その晩は寝《やす》みました。
次の朝、私はホテルの広場で、マリオ日日新聞を読みました。三面なんかまるで毒蛾《どくが》の記事で一杯です。
その中に床屋で起ったやうなことも書いてありました。殊にアムモニアの議論のことまで出てゐましたから、私はもうてっきりあの紳士のことだと考へました。きっと新聞記者もあの九つの椅子《いす》のどれかに腰掛けて、じっとあの問答をきいてゐたのです。また一面にはマリオ高等農学校の、ブンゼンといふ博士の、毒蛾に関する論文が載ってゐました。
それによると、毒蛾の鱗粉《りんぷん》は顕微鏡で見ると、まるで槍《やり》の穂のやうに鋭いといふこと、その毒性は或《ある》いは有機酸のためと云ふが、それ丈《だ》けとも思はれないといふこと、予防法としては鱗粉がついたら、まづ強く擦《こす》って拭《ふ》き取るのが一等だといふやうなことがわかるのでした。
さて私はその日は予定の視察をすまして、夕方すぐに十里ばかり南の方のハームキヤといふ町へ行きました。こゝには有名なコワック大学校があるのです。
ハームキヤの町でも毒蛾の噂《うはさ》は実に大へんなものでした。通りにはやはりたき火の痕《あと》もありました
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