し、電気会社には、まるで燈台で使ふやうな大きなラムプを、千|燭《しょく》の電燈の代りに高く高く吊《つる》してゐるのも私は見ました。また辻々《つじつじ》には毒蛾の記事に赤インクで圏点をつけたマリオの新聞もはられてゐました。けれども奇体なことは、此《こ》の町に繃帯《はうたい》をしてゐる人も、きれで顔を押へてゐる人も、又実際に顔や手が赤くはれてゐる人も一人も見あたらないことでした。
きっとこの町にはえらい医者が居て治療の法が進んでゐるんだと私は思ひました。
その晩、その町で電燈が消え、たき火が燃されたことはすっかり前の晩と同じでした。けれども電燈の長く消えてゐたこと、たき火の盛んなこととてもマリオよりはひどかったのです。私は早く寝んで、次の日朝早くからコワック大学校の視察に行きました。
大学校は、やっぱり大学校で、教授たちも、巡回視学官の私などが行ったからと云って、あんまり緊張をするでもなし、少し失敬ではありましたが、まあ私はがまんをしました。
それからだんだんまはって行って、その時は丁度十時頃でしたが、一つの標本室へ入って行きましたら、三人の教師たちが、一つの顕微鏡を囲んで、しきりにかはるがはるのぞいたり色素をデックグラスに注《つ》いだりしてゐました。
校長が、みんなを呼ばうとしたのを、私は手で止めて、そっとそのうしろに行って見ました。やっぱり毒蛾《どくが》の話です。多分毒蛾の鱗粉《りんぷん》を見てゐるのだと私は思ひました。
「中軸はあるにはありますね。」
「その中軸に、酸があるのぢゃないですか。」
「中軸が管になって、そこに酸があって、その先端が皮膚にささって、折れたとき酸が注ぎ込まれるといふんですか。それなら全く模型的ですがね。」
「しかしさうでないとも云へないでせう。たゞ中軸が管になってゐることと、その軸に酸が入ってゐることが、証明されないだけです。」
「メチレンブリューの代りに、青いリトマスを使って見たらどうですか。」
「さうですね。」一人が立って、リトマス液を取りに行かうとして、私にぶっつかりました。
「文部局の巡回視学官です。」校長がみんなに云ひました。みんなは私に礼をしました。
「どうです。そのリトマスの反応を拝見したいものですが。」私は笑って申しました。
青いリトマス液が新らしいデックグラスに注がれました。
「顕著です。中軸だけ赤く変ってゐます。」その教授が云ひました。
「どれ拝見。」私もそれをのぞき込みました。
全く槍のやうな形の、するどい鱗粉が、青色リトマスで一帯に青く染まって、その中に中軸だけが暗赤色に見えたのです。
「いや、ありがたう。大へんないゝものを拝見しました。どうです。学校にも大分被害者があったでせう。」私は云ひました。
「いゝえ。なあに、毒蛾なんて、てんでこの町には発生《で》なかったんです。昨夜、こいつ一|疋《ぴき》見つけるのに、四時間もかかったのです。」
一人の教授が答へました。
そして私は大声に笑ったのです。
底本:「新修宮沢賢治全集 第九巻」筑摩書房
1979(昭和54)年7月15日初版第1刷
1983(昭和58)年12月20日初版第6刷
※底本は旧仮名ですが、拗促音は小書きされています。これにならい、ルビの拗促音も、小書きにしました。
入力:林 幸雄
校正:土屋隆
2008年2月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全4ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮沢 賢治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング