毒蛾
宮沢賢治

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)毒蛾《どくが》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)市中|到《いた》る処

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「なから」はママ]
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 私は今日のひるすぎ、イーハトブ地方への出張から帰ったばかりです。私は文部局の巡回視学官ですから、どうしても始終出張ばかりしてゐます。私が行くと、どこの学校でも、先生も生徒も、大へん緊張します。
 さて、今度のイーハトブの旅行中で、私は大へんめづらしいものを見ました。新聞にも盛んに出てゐましたが、あの毒蛾《どくが》です、あれが実にひどくあの地方に発生したのです。
 殊に烈《はげ》しかったのは、イーハトブの首都のマリオです。私が折鞄《をりかばん》を下げて、マリオの停車場に下りたのは、丁度いまごろ、灯がやっとついた所でしたが、ホテルへ着いて見ると、この暑いのに、窓がすっかり閉めてあるのです。マリオは、こゝから三百里も北ですから、よほど涼しい訳ですが、やっぱり仲々蒸し暑いですからね、私は給仕に、
「おいどうしたんだ。窓をあけたらいゝぢゃないか。」と云《い》ったんです。すると給仕はてかてかの髪を一寸《ちょっと》撫《な》でて、
「はい、誠にお気の毒でございますが、当地方には、毒蛾がひどく発生して居《を》りまして、夕刻からは窓をあけられませんのでございます。只今《ただいま》、扇風機を運んで参ります。」と云ったのでした。
 なるほど、さう云って出て行く給仕を見ますと、首にまるで石の環《わ》をはめたやうな厚い繃帯《はうたい》をして、顔もだいぶはれてゐましたからきっと、その毒蛾に噛《か》まれたんだと、私は思ひました。ところが、間もなく隣りの室《へや》で、給仕が客と何か云ひ争ってゐるやうでした。それが仲々長いし烈しいのです。私は暑いやら疲れたやら、すっかりむしゃくしゃしてしまひましたので、今のうち一寸床屋へでも行って来ようと思って室を出ました。そして隣りの室の前を通りかゝりましたら、扉《と》が開け放してあって、さっきの給仕がひどく悄気《しょげ》て頭を垂れて立ってゐました。向ふには、髪もひげもまるで灰いろの、肥《ふと》ったふくろふのやうなおぢいさんが、安楽椅子《あんらくいす》にぐったり腰かけて、扇風機にぶうぶう吹かれながら、
「給仕をやってゐながら、一通りのホテルの作法も知らんのか。」と頬《ほほ》をふくらして給仕を叱《しか》りつけてゐました。私は、ははあ扇風機のことだなと思ひながら、苦笑ひをしてそこを通り過ぎようとしますと、給仕がちょっとこっちを向いて、いかにも申し訳けないといふやうに眼《め》をつぶって見せました。私はそれですっかり気分がよくなったのです。そして、どしどし階段を踏んで、通りに下りました。
 なるほど、毒蛾のことがわかって町をあるくと、さっき停車場からホテルへ来る途中、いろいろ変に見えたけしきも、すっかりもっともと思はれたのです。第一、人道にたくさんたき火のあとのあること、第二繃帯をしたり白いきれで顔を擦《こす》ったりして歩く人の多いこと、第三並木のやなぎに石油ラムプがぶらさがってゐることなどです。私は一軒の床屋に入りました。マリオの町だなんて、仲々大きな床屋がありますよ。向側の鏡が、九枚も上手に継いであって、店が丁度二倍の広さに見えるやうになって居り、糸杉《いとすぎ》やこめ栂《つが》の植木鉢《うゑきばち》がぞろっとならび、親方はもちろん理髪アーティストで、外にもアーティストが六人もゐるんですからね、殊に技術の点になると、実に念入りなもんでした。
「お髪《くし》はこの通りの型でよろしうございますか。」私が鏡の前の白いきれをかけた上等の椅子《いす》に座ったとき、一人のアーティストが私にたづねました。
「えゝ。」私は外のことを考へながらぼんやり返事をしました。するとそのアーティストは向ふで手のあいてゐる二人のアーティストを指で招きながら云ひました。
「どうだらう。お客さまはこの通りの型でいゝと仰《お》っしゃるが、君たちの意見はどうだい。」
 二人は私のうしろに来て、しばらくじっと鏡にうつる私の顔を見てゐましたが、そのうち一人のアーティストが、白服の腕を胸に組んで答へました。
「さあ、どうかね、お客さまのお顎《あご》が白くて、それに円くて、大へん温和《おとな》しくいらっしゃるんだから、やはりオールバックよりはネオグリークの方が調和がいゝぢゃないかな。」
「うん。僕《ぼく》もさう思ふね。」も一人も同意しました。私の係りのアーティストがもちろんといふやうに一寸《ちょっと》笑って、私に申しました。
「いかゞでございます、たゞいまのお髪《くし》の型よりは、ネオグリークの方がお顔と調和い
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