たしますやうでございますが。」
「さうですね、ぢゃさう願ひませうか。」私も叮寧に云ひました。それはこの人たちがみんな芸術家なから[#「なから」はママ]です。
 さて、私の頭はずんずん奇麗になり、気分も大へん直りました。これなら、今夜よく寝《やす》んで、あしたはマリオ農学校、マリオ工学校、マリオ商学校、三つだけ視《み》て歩いても大丈夫だと思って、気もちよく青い植木鉢《うゑきばち》や、アーティストの白い指の動くのや、チャキチャキ鳴る鋏《はさみ》の銀の影をながめて居りました。
 すると俄《には》かに私の隣りの人が、
「あ、いけない、いけない、たうとうやられた。」とひどく高い声で叫んだのです。
 びっくりして私はそっちを見ました。アーティストたちもみな馳《は》せ集ったのです。その叫んだ人は、たしかマリオ競馬会の会長か、幹事か技師長かだったでせうがひげを片っ方だけ剃《そ》った立派な紳士でした。どうしてその人が競馬の何かだといふことがわかったかと云ひますと、実はその人の胸に蹄鉄《ていてつ》の形の徽章《きしゃう》のついてゐたのを、さっき私は椅子にかける前ちゃんと見たのです。とにかくその人は、全く怖《おそ》ろしさうに顔をゆがめてゐました。
「どこへさはりましたのですか。」たしかに親方のアーティストらしい麻のモーニングを着た人が、大きなフラスコを手にしてみんなを押し分けて立ってゐました。そのうちに二三人のアーティストたちは、押虫網でその小さな黄色な毒蛾《どくが》をつかまへてしまひました。
「こゝだよ、こゝだよ。早く。」と云ひながら紳士は左の眼の下を指しました。親方のアーティストは、大急ぎで、フラスコの中の水を綿にしめしてその眼の下をこすりました。
「何だいこの薬は。」紳士が叫びました。
「アムモニア二%液」と親方が落ち着いて答へました。
「アムモニアは利かないって、今朝の新聞にあったぢゃないか。」紳士は椅子《いす》から立ちあがって親方に詰め寄りました。この紳士は桃色のシャツでした。
「どの新聞でご覧です。」親方は一層落ちついて答へました。
「イーハトブ日日新聞だ。」
「それは間違ひです。アムモニアの効くことは県の衛生課長も声明してゐます。」
「あてにならんさ。」
「さうですか。とにかく、だいぶ腫《は》れて参ったやうです。」親方のアーティストは、少ししゃくにさはったと見えて、プイッとうしろを向いて、フラスコを持ったまゝ向ふへ行ってしまひました。紳士は
「弱ったなあ、あしたは僕は陸軍の獣医たちと大事な交際があるんだ。こんなことになっちゃ、まるで向ふの感情を害するだけだ。困ったなあ。」と云ひながら、ずんずん赤くはれて行く頬《ほほ》を鏡で見てゐました。向ふで親方がまだ腹が立ってゐると見えて、斯《か》う云ったのです。
「なあに毒蛾なんか、市中|到《いた》る処《ところ》に居るんだ。私の店だけに来たんぢゃないんだ。毒蛾についちゃこっちに何の責任もないんだ。」
 紳士は、渋々《しぶしぶ》、又椅子に座って、
「おい、早くあとをやってしまって呉《く》れ早く。」と云ひました。そして、しきりに変な形になって行く顔を気にしながら、残りの半分のひげを剃《そ》らせてゐました。
 私の方のアーティストは、しきりに時計を見ました。そして無暗《むやみ》に急ぎました。
 まるで私の顔などは、二十五秒ぐらゐで剃ってしまったのです。剃刀《かみそり》がスキーをやるやうに滑《すべ》るのです。その技術には全く感心しましたが、又よほど恐《こは》かったのです。
「さあお洗ひいたしませう。」
 私は、大理石の洗面器の前に立ちました。
 アーティストは、つめたい水でシャアシャアと私の頭を洗ひ時々は指で顔も拭《ぬぐ》ひました。
 それから、私は、自分で勝手に顔を洗ひました。そして、も一度椅子にこしかけたのです。
 その時親方が、
「さあもう一分だぞ。電気のあるうちに大事なところは済ましちまへ。それからアセチレンの仕度はいゝか。」
「すっかり出来てゐます。」小さな白い服の子供が云ひました。
「持って来い。持って来い。あかりが消えてからぢゃ遅いや。」親方が云ひました。
 そこでその子供の助手が、アセチレン燈を四つ運び出して、鏡の前にならべ、水を入れて火をつけました。烈《はげ》しく鳴って、アセチレンは燃えはじめたのです。その時です。あちこちの工場の笛は一斉に鳴り、子供らは叫び、教会やお寺の鐘まで鳴り出して、それから電燈がすっと消えたのです。電燈のかはりのアセチレンで、あたりがすっかり青く変りました。
 それから私は、鏡に映ってゐる海の中のやうな、青い室《へや》の黒く透明なガラス戸の向ふで、赤い昔の印度《インド》を偲《しの》ばせるやうな火が燃されてゐるのを見ました。一人のアーティストが、そこでしきりに薪《まき
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