「一里あるよ。」
「このみちを行っていゝんですか。」
「行けるよ。」
「それでは私山の方へ行って見ますからね、向ふにも係りの方がおいででせう。」
「居るよ。」
「ではさうしませう。こっちでいつまでも待ってるよりはどうせ行かなけぁいけないんだから。ではお邪魔さまでした、いまにまた伺ひます。」
 署長は小さな組合の小屋を出た。少し行ったらみちが二つにわかれた。署長はちょっと迷ったけれども向ふから十五ばかりになる子供が草をしょって来るのを見て待ってゐて訊《き》いた。
「おい、椎蕈《しひたけ》山へはどう行くね。」
 すると子供はよく聞えないらしく顔をかしげて眼を片っ方つぶって云った。
「どこね、会社へかね。」会社、さあ大変だと署長は思った。
「あゝ会社だよ。会社は椎蕈山とは近いんだらう。」
「ちがふよ。椎蕈山こっちだし会社ならこっちだ。」
「会社まで何里あるね。」
「一里だよ。」
「どうだらう。会社から毎日荷馬車の便りがあるだらうか。」
「三日に一度ぐらゐだよ。」
 ふん、その会社は木材の会社でもなけぁ醋酸《さくさん》の会社でもない、途方もないことをしてやがる、行ってつかまへてしまふと署長はもうどぎどぎして眼がくらむやうにさへ思った。そして子供はまた重い荷をしょって行ってしまった。署長はまるではじめて汽車に乗る小学校の子供のやうに勇んでみちを進んで行った。それから丁度半里ばかり行ったらもう山になった。みちは谷に沿った細いきれいな台地を進んで行ったがまだ荷馬車のわだちははっきり切り込んでゐた。向ふに枯草の三角な丘が見えてそこを雲の影がゆっくりはせた。
「おい、どこへ行くんだい。」ホークを持ち首に黒いハンケチを結び付けた一人の立派な男が道の左手の小さな家の前に立って署長に叫んだ。
「椎蕈山へ行きますよ。」署長は落ちついて答へた。
「椎蕈山こっちぢゃない。すっかりみちをまちがったな。」青年が怒ったやうに含み声で云った。
「さうですか。こゝからそっちの方へ出るみちはないでせうか。」
「ないね、戻るより仕方ないよ。」
「さうですか。では戻りませう。」もう喧嘩《けんくゎ》をしたらとても勝てない。一たまりもないと思ったから署長は大急ぎで一つおじぎをして戻り出した。もう大ていいゝだらうと思ってうしろをちょっと振り返って見たらその若者はみちのまん中に傲然《がうぜん》と立ってまるでにらみ殺すやうにこっちを見てゐた。そのそばには心配さうな身ぶりをした若い女がより添ってゐたのだ。署長はまるで足が地につかないやうな気がした。もういまの家のもう少し川上にちゃんと小さな密造所がたってゐるんだ。毎月三四石づつ出してゐる。大した脱税だ。よし山をまはって行っても見てやらうと考へた。そしてずっと下ってまがり角を三つ四つまがってから、非常に警戒しながらふり向いて見るともう向ふは一本の松の木が崖《がけ》の上につき出てゐるばかりすっかりあの男も家も見えなくなってゐた。さあいまだと税務署長は考へて一とびにみちから横の草の崖に飛びあがった。それからめちゃくちゃにその丘をのぼった。丘の頂上には小さな三角標があってそこから頂がずうっと向ふのあの三角な丘までつゞいてゐた。税務署長は汗を拭《ふ》くひまもなく息をやすめるひまもなくそのきらきらする枯草をこいでそっちの方へ進んだ。どこかで蜂《はち》か何かぶうぶう鳴り風はかれ草や松やにのいゝ匂《にほひ》を運んで来た。
 ちょっとふりかへって見るとユグチュユモトの村は平和にきれいに横たはりそのずうっと向ふには河が銀の帯になって流れその岸にはハーナムキヤの町の赤い煙突も見えた。
 署長はちょっとの間濁密をさがすなんてことをいやになってしまった、けれどもまた気を取り直してあの三角山の方へつゝじに足をとられたりしながら急いだ。実にあのペイントを塗った顔から黒い汗がぼとぼとに落ちてシャツを黄いろに染めたのだ。ところが三角山の上まで来ると思はず署長は息を殺した。すぐ下の谷間にちょっと見ると椎蕈《しひたけ》乾燥場のやうな形の可成《かなり》大きな小屋がたって煙突もあったのだ。そして殊にあやしいことは小屋がきっぱりうしろの崖にくっついて建ててあっておまけにその崖が柔らかな岩をわざと切り崩したものらしかった。たしかにその小屋の奥手から岩を切ってこさへた室《へや》があって大ていの仕事はそこでやってゐるらしく思はれた。これはもう余程の大きさだ。小さな酒屋ぐらゐのことはある、たしかにさっきの語《ことば》のとほり会社にちがひない、いったい誰々の仕事だらう、どうもあの村会議員はあやしい、巡査を借りてやって来て村の方とこっちと一ぺんに手を入れないと証拠があがらない、誰か来るかも知れない今日一日見てゐようと税務署長は頬杖《ほほづゑ》をついて見てゐた。するとまるで注文通り小屋の中からさっきの若い男がぽろっと出て来た。それから手を大きく振ったやうに見えた、と思ふと、おゝい、サキチ、と叫ぶ声が聞えて来た。見ると荷馬車が一台おいてある。その横から膝《ひざ》の曲った男が出て来て二人一緒に小屋へ入った。さあ大変だと署長が思ってゐたら間もなく二人は大きな二斗|樽《だる》を両方から持って出て来た。そしてどっこいといふ風に荷馬車にのっけてあたりをじっと見まはした。馬が黒くてかてか光ってゐたし谷はごうと流れてしづかなもんだった、署長はもう興奮して頭をやけに振った。二人はまた小屋へ入った。そして又腰をかゞめて樽を持って来た。と思ったらすぐあとからまた一人出て来た。そして荷馬車の上に立って川下の方を見てゐる。二人はまた中へ入った、そしてまた樽を持って出て来たもんだ、(さあ、これでもう六斗になるまさかこれっきりだらう、これっきりにしても月六石になる大した脱税だ)と署長は考へた。ところがまた出て来た。そしてまた入ってまた出て来た。もう一石だ月十石だと署長はぐるぐるしてしまった。ところが又入ったのだ。こんどは月十二石だ、それからこんどは十四石十六石十八石、二十石とそこまで署長が夢のやうに計算したときは荷馬車の上はもう樽《たる》でぎっしりだった。すると三人がそれへ小屋の横から松の生枝をのせたりかぶせたりし出した。
 見る間にすっかり縛られて車が青くなり樽が見えなくなってもう誰《たれ》が見ても山から松枝をテレピン工場へでも運ぶとしか見えなくなった。荷馬車がうごき出した。馬がじっさい蹄《ひづめ》をけるやうにし、よほど重さうに見えた。するとさっきの若い男は荷馬車のあとへついた。それから十間ばかり行く間一番おしまひに小屋から出た男は腕を組んで立って待ってゐたが俄《には》かに歩き出してやっぱりついて行った。(実に巧妙だ。一体こんなことをいつからやってゐたらう。さあもうあの小屋に誰も居ない、今のうちにすっかりしらべてしまはう、証拠書類もきっとある。)税務署長は風のやうに三角山のてっぺんから小屋をめがけてかけおりた。ところが小屋の入口はちゃんと洋風の錠が下りてゐたのだ。(さあもういよいよ誰も居ない。あいつが村まで行って帰るまでどうしても二時間はかゝる。どこからか入らなけぁならない。)税務署長は狐《きつね》のやうにうろうろ小屋のまはりをめぐった。すると一とこ窓が一分ばかりあいてゐた。署長はそこへ爪《つめ》を入れて押し上げて見たらカラッと硝子《ガラス》は上にのぼった。もう有頂天になって中へ飛び込んで見るとくらくて急には何も見えなかったががらんとした何もない室《へや》だった。煙突の出てるのは次の室らしかった。急いでそっちへかけて行って見たらあったあったもう径二|米《メートル》ほどの大きな鉄釜《てつがま》がちゃんと煉瓦《れんぐゎ》で組んで据ゑつけられてゐる。署長は眼をこすってよく室の中を見まはした。隅《すみ》の棚《たな》のとこにアセチレン燈が一つあった。マッチも添へてあった。すばやくそれをおろしてみたらたったいま使ったらしくまだあつかった。栓《せん》をねぢって瓦斯《ガス》を吹き出させ火をつけたら室の中は俄《には》かに明るくなった。署長はまるで突貫する兵隊のやうな勢でその奥の室へ入った。そこは白い凝灰岩をきり開いた室でたしか四十坪はあると署長は見てとった。奥の方には二十石入の酒樽が十五本ばかりずらっとならび横には麹室《かうじむろ》らしい別の室さへあったのだ。おまけにビューレットも純粋培養の乳酸菌もピペットも何から何まで実に整然とそろってゐたのだ。(あゝもうだめだ、おれの講演を手を叩《たた》いて笑ったやつはみんな同類なのだ。あの村半分以上引っ括《くく》らなければならない。もうとても大変だ)署長はあぶなく倒れさうになった。その時だ、何か黄いろなやうなものがさっとうしろの方で光った。
 見ると小屋の入口の扉《と》があいて二人の黒い人かげがこっちへ入って来てゐるではないか。税務署長はちょっと鹿踊《ししをど》りのやうな足つきをしたがとっさにふっとアセチレンの火を消した。そしてそろそろとあの十五本の暗い酒だるのかげの方へ走った。足音と語《ことば》ががんがん反響してやって来た。「いぬだいぬだ。」「かくれてるぞかくれてるぞ。」「ふんじばっちまへ。」「おい、気を付けろ、ピストルぐらゐ持ってるぞ。」ズドンと一発やりたいなと署長は思った。とたん、アセチレンの火が向ふでとまった。青じろいいやな焔《ほのほ》をあげながらその火は注意深くこっちの方へやって来た。「酒だるのうしろだぞ」二人は這《は》ふやうにそろそろとやって来た。
 署長はくるくると樽の間をすりまはった。
 そしたらたうとう桶《をけ》と桶の間のあんまりせまい処へはさまってのくも引くもできなくなってしまった。
 アセチレンの火はすぐ横から足もとへやって来た。と思ふと黒い太い手がやって来ていきなり署長のくびをつかまへた。ガアンと頭が鳴った。署長は自分が酒桶の前の広場へ蟹《かに》のやうになって倒れてゐるのを見た。まるで力もなにもなかった。アセチレン燈もまだ持ってゐる。
「立て、こん畜生太いやつだ。炭焼がまの中へ入れちまふから、さう思へ。」
(炭焼がまの中に入れられたらおれの煙は木のけむりといっしょに山に立つ。あんまり情ない。)署長は青ざめながら考へた。
「誰《たれ》だ、きさん、収税だらう。」
「いゝや。」署長は気の毒なやうな返事をした。
「とにかく引っ括《くく》れ。」一人が顎《あご》でさし図した。一人はアセチレンをそこへ置いてまるで風のやうにうごいて綱を持って来た。署長はくるくるにしばられてしまった。
「おい、おれが番してるから早く社長と鑑査役に知らせて来い。」
「おゝ。」一人は又すばやくかけて出て行った。
「おい、云はなぃかこん畜生、貴さん収税だらう。」
「さうでない。」
「収税でなくて何しに入るんだ。」署長はやうやく気を取り直した。
「おいらトケイの乾物商だよ。」
「トケイの乾物商が何しにこんなとこへ来るんだ。」
「椎蕈《しひたけ》買ひに来たよ。」
「椎蕈。」
「あゝこゝで椎蕈つくってると思ったから見てゐたんだ。名刺もちゃんと組合の方へ置いてある。」
「正直な椎蕈商が何しに錠前のかかった家の窓からくぐり込むんだ。」
「椎蕈小屋の中へはひったっていゝと思ったんだ。外で待ってゐても厭《あ》きたからついはひって見たんだよ。」
「うん。さう云やさうだなあ。」こゝだと署長は思った。みんなの来ないうちに早く遁《に》げないともうほんたうに殺されてしまふ。もう一生けん命だと考へた。
「おい、いゝ加減にして繩《なは》をといて呉れよ。椎蕈はいくらでも高く買ふからさ。おれだってトケイにぁ妻も子供もあるんだ。こゝらへ来て、こんな目にあっちゃ叶《かな》はねえ。どうか繩をといて呉れよ。」
「うん、まあいまみんな来るから少し待てよ。よく聞いてから社長や重役の方へ申しあげれぁよかったなあ。」
「だからさ、遁《に》がして呉れよ。おれお前にあとでトケイへ帰ったら百円送るからさ。」
「まあ少し待てよ。」あゝもう少し待ったら、どんなことになるかわからない。署長はぐるぐるしてまた倒れさうになった。
 ところがもういけなかったの
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