税務署長の冒険
宮沢賢治
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)牛《オックス》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)ご免|蒙《かうむ》りませう
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)ウ※[#小書き片仮名ヰ、138−4]スキー
−−
一、濁密防止講演会
〔冒頭原稿数枚なし〕
イギリスの大学の試験では牛《オックス》でさへ酒を呑《の》ませると目方が増すと云《い》ひます。又これは実に人間エネルギーの根元です。酒は圧縮せる液体のパンと云ふのは実に名言です。堀部安兵衛が高田の馬場で三十人の仇討《あだう》ちさへ出来たのも実に酒の為にエネルギーが沢山あったからです。みなさん、国家のため世界のため大に酒を呑んで下さい。」(小学校長が青くなってゐる。役場から云はれて仕方なく学校を貸したのだが何が何でもこれではあんまりだと思ってすっかり青くなったな)と税務署長は思ひました。けれどもそれは大ちがひで小学校長の青く見えたのはあんまりほめられて一そう酒が呑みたくなったのでした。なぜならこの校長さんは樽《たる》こ先生といふあだ名で一ぺんに一升ぐらゐは何でもなかったのです。みんなはもちろん大賛成でうまいぞ、えらいぞ、と手をたゝいてほめたのでした。税務署長がまた見掛けの太ったざっくばらんらしい男でいかにも正直らしくみんなが怒るかも知れないなんといふことは気にもとめずどんどん云ひたいことを云ひました。実際それはひどい悪口もあってどうしてもみんなひどく怒らなければならない筈《はず》なのにも係はらずみんなはほんたうに面白さうに何べんも何べんも手を叩《たた》いたり笑ったりして聞いてゐました。
そのはじめの方をちゞめて見ますとこんな工合《ぐあひ》です。
「濁密をやるにしてもさ、あんまり下手なことはやってもらひたくないな。なぁんだ、味噌桶《みそをけ》の中に、醪《にごりざけ》を仕込んで上に板をのせて味噌を塗って置く、ステッキでつっついて見るとすぐ板が出るぢゃないか。廐《うまや》の枯草の中にかくして置く、いゝ馬だなあ、乳もしぼれるかいと云ふと顔いろを変へてゐる。
新らしい肥樽《こえだる》の中に仕込んで林の萱《かや》の中に置く。誰《たれ》かにこっそり持って行かれても大声で怒られない。煤《すす》だらけの天井裏にこさへて置いて取って帰って来るときは眼《め》をまっ赤にしてゐる。
できあがった酒《もの》だって見られたざまぢゃない。どうせにごり酒だから濁ってゐるのはいゝとして酸っぱいのもある、甘いのもある、アイヌや生蕃《せいばん》にやってもまあご免|蒙《かうむ》りませうといふやうなのだ。そんなものはこの電燈時代の進歩した人類が呑むべきもんぢゃない。どうせやるならなぜもう少し大仕掛けに設備を整へて共同ででもやらないか。すべからく米も電気で研ぐべし、しぼるときには水圧機を使ふべし、乳酸菌を利用し、ピペット、ビーカー、ビュウレット立派な化学の試験器械を使って清潔に上等の酒をつくらないか。もっともその時は税金は出して貰《もら》ひたい。さう云ふふうにやるならばわれわれは実に歓迎する。技師やなんかの世話までして上げてもいゝ。こそこそ半分かうじのまゝの酒を三升つくって罰金を百円とられるよりは大びらでいゝ酒を七斗呑めよ。」
まだまだずゐぶんひどく悪《にく》まれ口もきゝ耳の痛い筈なやうなことも云ひましたが誰も気持ち悪くする人はなく話が進めば進むほど、いよいよみんな愉快さうに顔を熱《ほて》らして笑ったり手を叩《たた》いたりしました。
どうもをかしいどうもをかしい、どうもをかしいとみんなの顔つきをきょろきょろ見ながらその割合ざっくばらんの少しずるい税務署長が思ひました。税務署長の考ではうんと悪口を云ってどれ位赤くなって怒る人があるかを見て大体その村の濁密の数を勘定しようと云ふのでした。それがいけないやうでしたから今度はだんだんおどしにかゝって青くなる人を見てやらうと思ひました。
ところがやっぱり面白さうに笑ひます。
税務署長は気が気でなく卒倒しさうになって頭に手をあげました。
全体こんなにおれの悪口をよろこんで笑ふのはみんなが一人も密造をしてゐないのか、それともおれの心底がわかってゐるのか、どうも気味が悪い、よしもう一つだけ山をかけて見ようと思って最後にコップの水を一口のんでできる丈《だ》け落ち着いて斯《か》う云ひました。
「正直を云ふとみんながどんなにこっそり濁密をやった所でおれの方ではちゃんとわかってゐる。この会衆の中にも七人のおれの方への密告者がまじってゐるのだ。」
みんなはしいんとなりました。それからザアッと鳴りました。さあ、こゝだおれを撲《なぐ》りにかゝるやつがあるぞ、遁《にげ》みちはちゃんときまってゐる、あしたの午《ひる》ころみんな仕事に出たころ係二十人一斉に自転車でやって来てそいつを押へてしまふ、斯う考へて税務署長はシラトリキキチに眼くばせして次を云ひました。
「おれの方では誰《たれ》の家の納屋の中に何斗あるか誰の家の床下に何升あるかちゃんと表になってあるのだ。」するとどうです、いまあれほど気が立ったみんなが一斉に面白さうにどっと吹き出したのです。もうだめだ、おしまひだ、しくじったと署長は思ひました。そしてもうすっかりぐるぐるして壇を下りてしまひました。
二、税務署長歓迎会
税務署長が壇を下りましたらすぐ名誉村長が笑ひながら少しかゞんで署長の前にやって来ました。そして礼を云ひました。
「たゞ今は実に有益なご講演を寔《まこと》に感謝いたします。何もございませんがいさゝか歓迎のしるしまで一献さしあげたいと存じます。ご迷惑は重々でございませうがどうかぢきそこまで御光来を願ひたう存じます。」
税務署長はいよいよ卒倒しさうになって
「いや、それはよろしい。」とかすれた声で返事しました。「では、」村長はみんなの方に向いて
「今晩の講演会はこれで閉会といたします。」と云ってから又署長たちの方に向き直って「さあ、ではどうぞ。」と右手で玄関の方を指しました。署長はなんとも変な気がしましたが仕方なくシラトリ属と一緒に村長たちに案内されて小学校の玄関を出すぐ一町ばかりさきの村会議員の家に行きました。村会議員の家は立派なもので五十畳の広間にはあかりがぞろっとともり正面には銀屏風《ぎんびゃうぶ》が立ってそこに二人は座らされました。すぐ村の有志たちが三十人ばかりきちんと座りました。たちまち立派な膳《ぜん》がならびたしかに税金を納めてある透明な黄いろないゝ酒が座をまはりはじめました。
みんなが交る交る税務署長のところへ盃《さかづき》を持ってやって来ました。
「いや、本日はお疲れでございませう。失礼ながら献盃《けんぱい》致しまする。」
「や、ありがたう、どうも悪口を云って済まなかった。どうも悪《にく》まれ商売でね、いやになるよ。」
「どう致しまして。閣下のやうな献身的のお方ばかりでしたら実に国家も大発展です。さあどうぞ。」
「はっはっは、いや、ありがたう。」なんて云ふ工合《ぐあひ》でシラトリキキチ氏の云ったやうにだんだんみんなの心は融《と》けて来たやうに見えましたが実は税務署長は決して油断をしないで絶えず左右に眼を配ってゐました。そのうちにいよいよみんなは酔ってしまってだんだん本音を吹いて来ました。
「や、署長さん。一杯いかゞ、どうです。ワッハッハ。濁り酒、味噌桶《みそをけ》に作るといふのはあんまり旧式だな。もっと最新法の方はいゝな。おい、署長さん。さあ、一杯いかゞ、私の盃をあなた取りませんか。閣下ぁ、ハッハッハ。さあ一杯、」
「いや、わかった、わかった。いや、今晩は実に酩《めい》ていした。辱《かたじ》けない。」
「ワッハッハ。やあ、今度はシラトリさん、さあ、おやりなさい。男子はすべからく決然たるところがなくてはだめですよ。さあ、高田の馬場で堀部安兵衛金丸が三十人を切ったのは実際酒の力だ、面白い、牛も酒を呑《の》むと酔ふといふのは面白い。さあ一杯。なかなかあなたは酒が強い。さあ一杯。」
一人が行ったと思ふと又一人が来るのでした。
「署長さん。はじめてお目通りを致します。」
「いやはじめて。」
「はじめて、はてなさっきも来ましたかな、二度目だ、ハッハッハ。署長さん、いや献杯、つゝしんで献杯|仕《つかまつ》ります。ハッハッハこの村の濁り酒はもう手に取るやうにわかってゐる、本当にか、さあ、本当ならいつでもやって来い。来るか、畜生、来て見やがれ。アッハッハ、失礼、署長さん署長さん、もう斯《か》うなったらいっそのこと無礼講にしませう。無礼講。おゝい、みんな無礼講だぞ、そもそもだ、濁密の害悪は国家も保証する、税務署も保証すると、ううぃ。献杯、いや献杯、」
「もう沢山、」
「遁《に》げるのか、遁げる気か。ようし、ようし、その気なら許さんぞ。献杯、さあ献杯だ、おゝい貴様ぁ。」
税務署長はもうすっかり酔ってゐました。シラトリ属も酔ってはゐました。けれども二人とも決して職業も忘れず又油断もしなかったのです。
それでももうぐたぐたになって何もかもわからないといふふりをしてゐました。それにくらべたら村の方の人たちこそ却《かへ》って本当に酔ってしまったのでした。そのうちに税務署長は少し酒の匂《にほひ》が変って来たのに気がつきました。たしかに今までの酒とはちがった酒が座をまはりはじめてゐました。署長は見ないふりをしながらよく気をつけて盃《さかづき》を見ましたが少しも濁ってはゐませんでした。どうもをかしい。これは決してこゝらのどの酒屋でできる酒でもない、他県から来るのだってもう大ていはきまってゐる。どうもをかしいと斯《か》う署長はひとりで考へました。そのうちさっきの村会議員が又やって来てきちんと座って云ひました。
「いや、もう閣下、ひどくご無礼をいたしました。こんな乱雑な席にご光来をねがひまして面目次第もございません。たゞもうほんの村民の志だけをお汲《く》み下されまして至らぬところ又すぎました処《ところ》は平にご容赦をねがひます。」
署長はすっかり酔った風をしながら笑って答へました。
「いや、君、こんな愉快なうちとけた宴会ははじめてだよ。こんなことならたびたびやって来たいもんだね。斯う出られたら困るだらう。」
村会議員はちらっと署長を見あげました。本当はまだ酔ってゐないなと気がついたのです。署長が又云ひました。
「どうも斯う高い税金のかかった酒を斯う多分に貰《もら》っちゃお気の毒だ。一つ内密でこの村だけ無税にしようかな。」
「いや、ハッハッハ。ご冗談。」村会議員は少しあわてて台所の方へ引っ込んで行きました。
「もう失礼しよう、おい君。」署長は立ちあがりました。
「もうお帰りですか。まあまあ。」村長やみんなが立って留めようとしたときそこはもう商売で署長と白鳥属とはまるで忍術のやうに座敷から姿を消し台所にあった靴《くつ》をつまんだと思ふともう二人の自転車は暗い田圃《たんぼ》みちをときどき懐中電燈をぱっぱっとさせて一目散にハーナムキヤの町の方へ走ってゐたのです。
三、署長室の策戦
次の日税務署長は役所へ出て自分の室《へや》に入り出勤簿を検査しますとチリンチリンと卓上ベルを鳴らして給仕を呼び「デンドウイを呼べ。」とあごで云ひつけました。
すぐ白服のデンドウイ属がいかにも敬虔《けいけん》に入って来ました。
「まあ掛け給《たま》へ。」署長はやさしく云って話の口をきりました。
「ユグチュユモトの村へ出張して呉《く》れ給へ。」
「は、」
「変装して行って貰《もら》ひたいな。一寸《ちょっと》売薬商人がいゝだらう。あの千金丹の洋傘《かうもりがさ》があった筈《はず》だね。」
「は、ございます。」
「ぢゃ、ライオン堂へ行ってこれでウ※[#小書き片仮名ヰ、138−4]スキーを一本買ってねそれから広告をくばってやるからと云って何か
次へ
全4ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮沢 賢治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング