なあに、向ふの方の草の中で、牛はこっち向いて、だまって立ってるさ。)と思ひながら、ずんずん進んで行きました。
 空はたいへん暗く重くなり、まはりがぼうっと霞《かす》んで来ました。冷たい風が、草を渡りはじめ、もう雲や霧が、切れ切れになって眼《め》の前をぐんぐん通り過ぎて行きました。
(あゝ、こいつは悪くなって来た。みんな悪いことはこれから集《たか》ってやって来るのだ。)と達二は思ひました。全くその通り、俄《にはか》に牛の通った痕は、草の中で無くなってしまひました。
(あゝ、悪くなった、悪くなった。)達二は胸をどきどきさせました。
 草がからだを曲げて、パチパチ云ったり、さらさら鳴ったりしました。霧が殊に滋《しげ》くなって、着物はすっかりしめってしまひました。
 達二は咽喉《のど》一杯叫びました。
「兄《あい》な[#「な」は小書き]。兄な[#「な」は小書き]。牛ぁ逃げだ。兄な[#「な」は小書き]。兄な[#「な」は小書き]。」
 何の返事も聞えません。黒板から降る白墨の粉のやうな、暗い冷たい霧の粒が、そこら一面踊りまはり、あたりが俄にシインとして、陰気に陰気になりました。草からは、もう雫《し
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