らと飛んで過《す》ぎました。
 子供らが長い棒《ぼう》に紐《ひも》をつけて、それを追いました。
(雁の童子だ。雁の童子だ。)
 子供らは棒を棄《す》て手をつなぎ合って大きな環《わ》になり須利耶さま親子を囲《かこ》みました。
 須利耶さまは笑っておいででございました。
 子供らは声を揃《そろ》えていつものようにはやしまする。
  (雁の子、雁の子雁童子、
  空から須利耶におりて来た。)と斯うでございます。けれども一人の子供が冗談《じょうだん》に申しまするには、
  (雁のすてご、雁のすてご、
  春になってもまだ居《い》るか。)
 みんなはどっと笑いましてそれからどう云うわけか小さな石が一つ飛んで来て童子の頬《ほお》を打ちました。須利耶さまは童子をかばってみんなに申されますのには、
 おまえたちは何をするんだ、この子供は何か悪《わる》いことをしたか、冗談にも石を投《な》げるなんていけないぞ。
 子供らが叫んでばらばら走って来て童子に詫《わ》びたり慰めたりいたしました。或《あ》る子は前掛《まえか》けの衣嚢《かくし》から干《ほ》した無花果《いちじく》を出して遣《や》ろうといたしました。
 童子は初《はじ》めからお了《しま》いまでにこにこ笑《わら》っておられました。須利耶さまもお笑いになりみんなを赦《ゆる》して童子を連れて其処《そこ》をはなれなさいました。
 そして浅黄《あさぎ》の瑪瑙《めのう》の、しずかな夕もやの中でいわれました。
(よくお前はさっき泣かなかったな。)その時童子はお父さまにすがりながら、
(お父さんわたしの前のおじいさんはね、からだに弾丸《たま》を七つ持っていたよ。)と斯う申されたと伝えます。」
 巡礼の老人は私の顔を見ました。
 私もじっと老人のうるんだ眼を見あげておりました。老人はまた語りつづけました。
「また或る晩《ばん》のこと童子は寝付《ねつ》けないでいつまでも床《とこ》の上でもがきなさいました。(おっかさんねむられないよう。)と仰っしゃりまする、須利耶の奥さまは立って行って静かに頭を撫《な》でておやりなさいました。童子さまの脳《のう》はもうすっかり疲《つか》れて、白い網《あみ》のようになって、ぶるぶるゆれ、その中に赤い大きな三日月《みかづき》が浮かんだり、そのへん一杯《いっぱい》にぜんまいの芽《め》のようなものが見えたり、また四角な変に柔《やわ》らかな白いものが、だんだん拡《ひろ》がって恐ろしい大きな箱になったりするのでございました。母さまはその額《ひたい》が余り熱いといって心配《しんぱい》なさいました。須利耶さまは写《うつ》しかけの経文《きょうもん》に、掌《て》を合せて立ちあがられ、それから童子さまを立たせて、紅革《べにがわ》の帯を結《むす》んでやり表へ連れてお出になりました。駅《えき》のどの家ももう戸を閉《し》めてしまって、一面《いちめん》の星の下に、棟々《むねむね》が黒く列《なら》びました。その時童子はふと水の流れる音を聞かれました。そしてしばらく考えてから、
(お父さん、水は夜でも流れるのですか。)とお尋《たず》ねです。須利耶さまは沙漠の向うから昇って来た大きな青い星を眺めながらお答えなされます。
(水は夜でも流れるよ。水は夜でも昼でも、平《たい》らな所でさえなかったら、いつまでもいつまでも流れるのだ。)
 童子の脳は急《きゅう》にすっかり静《しず》まって、そして今度は早く母さまの処にお帰りなりとうなりまする。
(お父さん。もう帰ろうよ。)と申されながら須利耶さまの袂《たもと》を引っ張《ぱ》りなさいます。お二人は家に入り、母さまが迎《むか》えなされて戸の環を嵌《は》めておられますうちに、童子はいつかご自分の床に登って、着換えもせずにぐっすり眠ってしまわれました。
 また次のようなことも申します。
 ある日須利耶さまは童子と食卓《しょくたく》にお座《すわ》りなさいました。食品の中に、蜜《みつ》で煮《に》た二つの鮒《ふな》がございました。須利耶の奥さまは、一つを須利耶さまの前に置かれ、一つを童子にお与《あた》えなされました。
(喰《た》べたくないよおっかさん。)童子が申されました。(おいしいのだよ。どれ、箸《はし》をお貸《か》し。)
 須利耶の奥さまは童子の箸をとって、魚を小さく砕《くだ》きながら、(さあおあがり、おいしいよ。)と勧《すす》められます。童子は母さまの魚を砕く間、じっとその横顔を見ていられましたが、俄かに胸が変な工合《ぐあい》に迫《せま》ってきて気の毒《どく》なような悲しいような何とも堪《たま》らなくなりました。くるっと立って鉄砲玉《てっぽうだま》のように外へ走って出られました。そしてまっ白な雲の一杯に充《み》ちた空に向って、大きな声で泣き出しました。まあどうしたのでしょう、と須利耶の奥
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