さまが愕ろかれます。どうしたのだろう行ってみろ、と須利耶さまも気づかわれます。そこで須利耶の奥さまは戸口にお立ちになりましたら童子はもう泣きやんで笑っていられましたとそんなことも申し伝《つた》えます。
 またある時、須利耶さまは童子をつれて、馬市《うまいち》の中を通られましたら、一疋の仔馬《こうま》が乳《ちち》を呑《の》んでおったと申します。黒い粗布《あらぬの》を着た馬商人《うましょうにん》が来て、仔馬を引きはなしもう一疋の仔馬に結びつけ、そして黙《だま》ってそれを引いて行こうと致《いた》しまする。母親の馬はびっくりして高く鳴きました。なれども仔馬はぐんぐん連れて行かれまする。向うの角《かど》を曲《まが》ろうとして、仔馬は急《いそ》いで後肢《あとあし》を一方あげて、腹《はら》の蝿《はえ》を叩《たた》きました。
 童子は母馬の茶いろな瞳を、ちらっと横眼《よこめ》で見られましたが、俄かに須利耶さまにすがりついて泣き出されました。けれども須利耶さまはお叱《しか》りなさいませんでした。ご自分の袖《そで》で童子の頭をつつむようにして、馬市を通りすぎてから河岸《かわぎし》の青い草の上に童子を座《すわ》らせて杏《あんず》の実《み》を出しておやりになりながら、しずかにおたずねなさいました。
(お前はさっきどうして泣いたの。)
(だってお父さん。みんなが仔馬をむりに連れて行くんだもの。)
(馬は仕方《しかた》ない。もう大きくなったからこれから独《ひと》りで働《はた》らくんだ。)
(あの馬はまだ乳を呑んでいたよ。)
(それはそばに置いてはいつまでも甘《あま》えるから仕方ない。)
(だってお父さん。みんながあのお母さんの馬にも子供の馬にもあとで荷物を一杯つけてひどい山を連れて行くんだ。それから食べ物がなくなると殺《ころ》して食べてしまうんだろう。)
 須利耶さまは何気《なにげ》ないふうで、そんな成人《おとな》のようなことを云うもんじゃないとは仰っしゃいましたが、本統《ほんとう》は少しその天の子供が恐《おそ》ろしくもお思いでしたと、まあそう申し伝えます。
 須利耶さまは童子を十二のとき、少し離《はな》れた首都《しゅと》のある外道《げどう》[※4]の塾《じゅく》にお入れなさいました。
 童子の母さまは、一生けん命機を織って、塾料《じゅくりょう》や小遣《こづか》いやらを拵《こし》らえてお送りなさいました。
 冬が近くて、天山[※5]はもうまっ白になり、桑《くわ》の葉《は》が黄いろに枯《か》れてカサカサ落ちました頃《ころ》、ある日のこと、童子が俄かに帰っておいでです。母さまが窓《まど》から目敏《めざと》く見付けて出て行かれました。
 須利耶さまは知らないふりで写経を続けておいてです。
(まあお前は今ごろどうしたのです。)
(私、もうお母さんと一緒《いっしょ》に働《はた》らこうと思います。勉強《べんきょう》している暇《ひま》はないんです。)
 母さまは、須利耶さまのほうに気兼《きが》ねしながら申されました。
(お前はまたそんなおとなのようなことを云って、仕方《しかた》ないではありませんか。早く帰って勉強して、立派になって、みんなの為《ため》にならないとなりません。)
(だっておっかさん。おっかさんの手はそんなにガサガサしているのでしょう。それだのに私の手はこんななんでしょう。)
(そんなことをお前が云わなくてもいいのです。誰《だれ》でも年を老《と》れば手は荒《あ》れます。そんなことより、早く帰って勉強をなさい。お前の立派になることばかり私には楽《たのし》みなんだから。お父さんがお聞きになると叱られますよ。ね。さあ、おいで。)と斯う申されます。
 童子はしょんぼり庭から出られました。それでも、また立ち停《どま》ってしまわれましたので、母さまも出て行かれてもっと向うまでお連れになりました。そこは沼地《ぬまち》でございました。母さまは戻《もど》ろうとしてまた(さあ、おいで早く。)と仰っしゃったのでしたが童子はやっぱり停《と》まったまま、家の方をぼんやり見ておられますので、母さまも仕方なくまた振《ふ》り返《かえ》って、蘆《あし》を一本|抜《ぬ》いて小さな笛《ふえ》をつくり、それをお持たせになりました。
 童子はやっと歩き出されました。そして、遥《はる》かに冷《つめ》たい縞《しま》をつくる雲のこちらに、蘆がそよいで、やがて童子の姿が、小さく小さくなってしまわれました。俄かに空を羽音がして、雁の一列が通りました時、須利耶さまは窓からそれを見て、思わずどきっとなされました。
 そうして冬に入りましたのでございます。その厳《きび》しい冬が過ぎますと、まず楊の芽《め》が温和《おとな》しく光り、沙漠には砂糖水《さとうみず》のような陽炎《かげろう》が徘徊《はいかい》いたしまする。
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