雁《かり》の童子《どうじ》
宮沢賢治
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[表記について]
●底本に従い、小学校1・2年の学習配当漢字を除く漢字にはルビをつけた。ただし、同一語句についてはルビは初出のみにつけた。
●ルビは「漢字《ルビ》」の形式で処理した。
●[※番号]は、入力者の補注を示す。補注は、ファイルの末尾に置いた。
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 流沙《るさ》[※1]の南の、楊《やなぎ》で囲まれた小さな泉《いずみ》で、私は、いった麦粉《むぎこ》を水にといて、昼の食事《しょくじ》をしておりました。
 そのとき、一人の巡礼《じゅんれい》のおじいさんが、やっぱり食事のために、そこへやって来ました。私たちはだまって軽《かる》く礼をしました。
 けれども、半日まるっきり人にも出会《であ》わないそんな旅《たび》でしたから、私は食事がすんでも、すぐに泉とその年老《としと》った巡礼とから、別《わか》れてしまいたくはありませんでした。
 私はしばらくその老人《ろうじん》の、高い咽喉仏《のどぼとけ》のぎくぎく動《うご》くのを、見るともなしに見ていました。何か話し掛《か》けたいと思いましたが、どうもあんまり向《むこ》うが寂《しず》かなので、私は少しきゅうくつにも思いました。
 けれども、ふと私は泉のうしろに、小さな祠《ほこら》のあるのを見付《みつ》けました。それは大へん小さくて、地理学者や探険家《たんけんか》ならばちょっと標本《ひょうほん》に持《も》って行けそうなものではありましたがまだ全《まった》くあたらしく黄いろと赤のペンキさえ塗《ぬ》られていかにも異様《いよう》に思われ、その前には、粗末《そまつ》ながら一本の幡《はた》も立っていました。
 私は老人が、もう食事も終《おわ》りそうなのを見てたずねました。
「失礼《しつれい》ですがあのお堂《どう》はどなたをおまつりしたのですか。」
 その老人も、たしかに何か、私に話しかけたくていたのです。だまって二、三度うなずきながら、そのたべものをのみ下して、低《ひく》く言いました。
「……童子のです。」
「童子ってどう云《い》う方ですか。」
「雁の童子と仰《お》っしゃるのは。」老人は食器《しょっき》をしまい、屈《かが》んで泉の水をすくい、きれいに口をそそいでからまた云いました。
「雁の童子と仰っしゃるのは、まるでこの頃《ごろ》あった昔《むかし》ばなしのようなのです。この地方にこのごろ降《お》りられました天童子《てんどうじ》だというのです。このお堂はこのごろ流沙の向う側《がわ》にも、あちこち建《た》っております。」
「天のこどもが、降りたのですか。罪《つみ》があって天から流《なが》されたのですか。」
「さあ、よくわかりませんが、よくこの辺《へん》でそう申します。多分そうでございましょう。」
「いかがでしょう、聞かせて下さいませんか。お急《いそ》ぎでさえなかったら。」
「いいえ、急ぎはいたしません。私の聴《き》いただけお話いたしましょう。
 沙車《さしゃ》[※2]に、須利耶圭《すりやけい》という人がございました。名門《めいもん》ではございましたそうですが、おちぶれて奥《おく》さまと二人、ご自分は昔からの写経《しゃきょう》をなさり、奥さまは機《はた》を織《お》って、しずかにくらしていられました。
 ある明方《あけがた》、須利耶さまが鉄砲《てっぽう》をもったご自分の従弟《いとこ》のかたとご一緒《いっしょ》に、野原を歩いていられました。地面《じめん》はごく麗《うる》わしい青い石で、空がぼうっと白く見え、雪もま近《ぢか》でございました。
 須利耶さまがお従弟さまに仰《お》っしゃるには、お前もさような慰《なぐさ》みの殺生《せっしょう》を、もういい加減《かげん》やめたらどうだと、斯《こ》うでございました。
 ところが従弟の方が、まるですげなく、やめられないと、ご返事《へんじ》です。
(お前はずいぶんむごいやつだ、お前の傷《いた》めたり殺《ころ》したりするものが、一体どんなものだかわかっているか、どんなものでもいのちは悲《かな》しいものなのだぞ。)と、須利耶さまは重《かさ》ねておさとしになりました。
(そうかもしれないよ。けれどもそうでないかもしれない。そうだとすればおれは一層《いっそう》おもしろいのだ、まあそんな下らない話はやめろ、そんなことは昔の坊主《ぼうず》どもの言うこった、見ろ、向うを雁が行くだろう、おれは仕止《しと》めて見せる。)と従弟のかたは鉄砲を構《かま》えて、走って見えなくなりました。
 須利耶さまは、その大きな黒い雁の列《れつ》を、じっと眺《なが》めて立たれました。
 そのとき俄《にわ》かに向うから、黒い尖《とが》った弾丸《だんがん》が昇《のぼ》って、まっ先きの雁の胸《むね》を射《い》ました。
 雁は二、三べん揺《ゆ》らぎました。見る見るからだに火が燃
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