杏やすももの白い花が咲《さ》き、次《つい》では木立《こだち》も草地もまっ青《さお》になり、もはや玉髄《ぎょくずい》の雲の峯《みね》が、四方の空を繞《めぐ》る頃《ころ》となりました。
 ちょうどそのころ沙車の町はずれの砂《すな》の中から、古い沙車大寺のあとが掘《ほ》り出されたとのことでございました。一つの壁《かべ》がまだそのままで見附けられ、そこには三人の天童子が描《えが》かれ、ことにその一人はまるで生きたようだとみんなが評判《ひょうばん》しましたそうです。或るよく晴れた日、須利耶さまは都に出られ、童子の師匠《ししょう》を訪ねて色々|礼《れい》を述《の》べ、また三巻《みまき》の粗布を贈り、それから半日、童子を連れて歩きたいと申されました。
 お二人は雑沓《ざっとう》の通りを過ぎて行かれました。
 須利耶さまが歩きながら、何気《なにげ》なく云われますには、
(どうだ、今日の空の碧《あお》いことは、お前がたの年は、丁度《ちょうど》今あのそらへ飛びあがろうとして羽をばたばた云わせているようなものだ。)
 童子が大へんに沈《しず》んで答えられました。
(お父さん。私はお父さんとはなれてどこへも行きたくありません。)
 須利耶さまはお笑いになりました。
(勿論《もちろん》だ。この人の大きな旅《たび》では、自分だけひとり遠い光の空へ飛び去《さ》ることはいけないのだ。)
(いいえ、お父さん。私はどこへも行きたくありません。そして誰もどこへも行かないでいいのでしょうか。)とこう云う不思議《ふしぎ》なお尋ねでございます。
(誰もどこへも行かないでいいかってどう云うことだ。)
(誰もね、ひとりで離《はな》れてどこへも行かないでいいのでしょうか。)
(うん。それは行かないでいいだろう。)と須利耶さまは何の気もなくぼんやりと斯うお答えでした。
 そしてお二人は町の広場を通り抜けて、だんだん郊外《こうがい》に来られました。沙《すな》がずうっとひろがっておりました。その砂《すな》が一ところ深《ふか》く掘られて、沢山《たくさん》の人がその中に立ってございました。お二人も下りて行かれたのです。そこに古い一つの壁がありました。色はあせてはいましたが、三人の天の童子たちがかいてございました。須利耶さまは思わずどきっとなりました。何か大きい重《おも》いものが、遠くの空からばったりかぶさったように思われましたのです。それでも何気なく申されますには、
(なるほど立派なもんだ。あまりよく出来てなんだか恐《こわ》いようだ。この天童《てんどう》はどこかお前に肖《に》ているよ。)
 須利耶さまは童子をふりかえりました。そしたら童子はなんだかわらったまま、倒れかかっていられました。須利耶さまは愕ろいて急いで抱《だ》き留《と》められました。童子はお父さんの腕の中で夢《ゆめ》のようにつぶやかれました。
(おじいさんがお迎《むか》いをよこしたのです。)
 須利耶さまは急いで叫ばれました。
(お前どうしたのだ。どこへも行ってはいけないよ。)
 童子が微《かす》かに云われました。
(お父さん。お許《ゆる》し下さい。私はあなたの子です。この壁は前にお父さんが書いたのです。そのとき私は王の……だったのですがこの絵ができてから王さまは殺されわたくしどもはいっしょに出家《しゅっけ》したのでしたが敵王《てきおう》がきて寺を焼《や》くとき二日ほど俗服《ぞくふく》を着てかくれているうちわたくしは恋人《こいびと》があってこのまま出家にかえるのをやめようかと思ったのです。)
 人々が集《あつま》って口々に叫びました。
(雁の童子だ。雁の童子だ。)
 童子はも一度、少し唇《くちびる》をうごかして、何かつぶやいたようでございましたが、須利耶さまはもうそれをお聞きとりなさらなかったと申します。
 私の知っておりますのはただこれだけでございます。」
 老人はもう行かなければならないようでした。私はほんとうに名残《なご》り惜《お》しく思い、まっすぐに立って合掌《がっしょう》して申しました。
「尊《とうと》いお物語《ものがたり》をありがとうございました。まことにお互《たが》い、ちょっと沙漠のへりの泉で、お眼にかかって、ただ一時を、一緒《いっしょ》に過ごしただけではございますが、これもかりそめのことではないと存《ぞん》じます。ほんの通りがかりの二人の旅人《たびびと》とは見えますが、実はお互がどんなものかもよくわからないのでございます。いずれはもろともに、善逝《スガタ》[※6]の示《しめ》された光の道を進み、かの無上菩提《むじょうぼだい》[※7]に至《いた》ることでございます。それではお別れいたします。さようなら。」
 老人は、黙って礼を返しました。何か云いたいようでしたが黙って俄かに向うを向き、今まで私の来た方の荒地《あ
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