からいいけれど。
秀「ですから両親ほど大切なものはありません。お死去《なくなり》なすってから。いくら孝行をしたいとおもってもおッつかない。そんな愚痴はおやめにして。御仏壇へお線香でもあげておいでナ。オヤおかしな人涙ぐんで。そんなきのせまいことではいけませんネ。つれづれ草にもありましょう。心をもちいること少しきにしてきびしき時はものにさかう。というじゃアありませんか。なんでも気をおおきくもって。そんなことをいった人に後来《すえ》をみせて。赤い顔をさせておやんなさい。
 まだ十七の乙女《おとめ》には。めずらしきまでさとりたる顔はすれども。しかすがに弟の心。亡《な》き親のことを思えば。思わずもそらにしられぬ袖の雨。顔をそむくる折も折。
「ヘイ今日は。豆腐屋でござい。
葦「姉さん豆腐屋が来たヨ。
「豆腐屋でござい。
葦「姉さん聞えないの豆腐……。
秀「きこえましたヨ。
 ようように顔をなおし。
秀「きょうはいりませんヨ。

     第五回

葦「御免なさいまし。
母「オオ葦男さん。なんだえすぐお通りナ。今日は一郎も家にいますし。斎藤さんも来ておいでだ」というは。本卦《ほんけ》がえりにモウ二ツ三ツという年ごろ。頭は切下げにして。少し小肉のある気さくそうな婆さんは。葦男|姉弟《きょうだい》の借住居せし長屋のあるじ。宮崎一郎の母なりけり。
 葦男はズット通り。宮崎斎藤に挨拶《あいさつ》し。またその母にむかい。
葦「あの今日は亡父の三回忌に当りますので。わざと志の牡丹餅《ぼたもち》を拵《こし》らえましたが。姉の手でござりますから。うまくはござりますまいが。どうか召し上ってくださいまし」と手に携さえし重箱に。袱《ふくさ》をかけて差し出せば。
母「なるほどそうでござりました。お早いものでござります。斎藤さんはたしかお宗旨違いだったが。一郎ご覧おいしそうなこと。
宮「葦男さん学校は御出精かね。斎藤さんが今も。大そう進歩が早い。才童の評判がある。といってほめなすってであッた」この斎藤というは葦男の通学する。学校の教員なるべし。
母「ほんとうにこの仏様も。草葉の影でお悦《よろこ》びでござりましょう。それに斎藤さんお聞きなさい。この子の姉さんが実に感心でござります。少しはおとっさんのお蓄《たくわ》えもあって。今でも公債の利子が。月々八九円はいるそうですが。それをへらしてはならないとって。なんでも毛糸編みをして。それで姉さんがお飯《まんま》まで炊いて。その上この子の学資を……。
葦「お伯母さんうそでござります。そんなことはござりません。
宮「葦男さん。お前は姉さんが内職をするなんということを。恥とでも思ってお隠しかしらんが。それは恥じることではない。自慢していい咄だ。人は己《おの》れの力で食わなければならない。姉さんなんぞはほんとにえらいもんだ。と僕のうちでは陰でほめているのサ。ネー斎藤さん。
斎「それは実に感心なわけだ。
母「そしてそればかりではない。自分では学校へ通うことが出来ないからといって。この子が帰って来ると。すぐとその稽古しただけはうつしてもらうところが。器用なたちで覚えがよいから。今ではこの子が下読みをしてもらうくらいになったとネ。葦男さん。
葦「それはほんとでござります。わたくしの忘れたところはみんなねえさんに……。
宮「そうか。国語学では葦男さんは年に似合わずよく出来るとのことだが。そうして見れば姉さんの力かネ。
葦「ハイ亡父のおりました時に。姉は始終下田歌子さんのところへ通学致しまして。歌などの稽古をしたり。書《ほん》を読んだりしましたので。一通りは私も姉からおそわりました。
宮「なるほど。英語はどうだネ。
葦「第四リーダーと万国史を読んでおります。
斎「それりゃアえらいこった。才童といわれるもそのはずだ。僕は化学の方ばかりだから。まだあし男さんにはお近づきにならなかった。
葦「さようでござりますか。私くしの方ではよく先生を存じております。
母「そうだろうネ。そんなによく出来たら。今にいい官員さんにおなりだろう。
宮「おっかさん。そんなことを子供にいい聞かせると。とんだ間違いの種になります。葦男さん。学問は官員になって月給を取るためではない。この社会に利益を与える人になるためにするのだ。斎藤君。今の大学でも政事や法律で卒業する者は。いずれ官員になるのだが。文学や工学で卒業するものに比しては。皆《みんな》学問は出来ないのがおおいというと。御同前の田へ水を引くようだ。アハハハ。それだから葦男さんも。官員なんぞという文字は脳中にないようにして。世のためになることをしようとお心がけなさい。
斎「官員といえば山中はどうしたろう。この節は役所のはぶりがいいとかで。等も進んだそうだ。仕方のない男だが。あんなのが人気《じんき》にあうのサ。まア僕らの学術上で分析すれば。ゴマカシュム百分の七十に。オペッカリュム百分の三十という人物だ。アハハハハ。
宮「あれでかれこれ御同前の三分の二ぐらい月給をとるのだから。官員は名誉にも何にもならない。
斎「そうだがこのごろはどんなソサヤジーにも面《つら》を出して。高等官の中間《なかま》にでもはいったように威張っているそうだ。
宮「ナニサあれは篠原|子《し》と。ことに例のがひいきして引っ張り廻すからサ。
斎「例のとなんだかおかしな咄を聞いたが。
宮「それは決してあるまい。あっちが顔のいい上にあんなにはねッかえりで、瓜田李下《かでんりか》の嫌疑《けんぎ》なんぞにかまわないところへ。こっちがおかしくべたべたするたちだから。おかやきがやかましいのサ。そういえば君はあの女学校も兼勤だったね。篠原のは退校したとか。
斎「退校したが全体ピヤノなにかはよく出来たが。跡のことは容子ほどにはいかないから。来年の卒業もどうかと思っていたくらいだ。退校もよかろう。しかし英語だけは山中が始終おしえにいって。近ごろ少し出来てきたということだが。篠原のは親父のおかげもあるし。むやみに交際に出かけるから。女学校で一時評判にはなったけれど。末頼もしい生徒はマア学校にはなしサ。しかしあの服部のは私塾にいるが。温順で怜悧《れいり》で生いき気がないから感心サ。
宮「ソウサ僕の妹も同塾でよく毎度せわになりますが。年に似合わず親切には感心します。
葦「さようなら。
母「オヤだしぬけにおかえりか。ねえさんによろしく。

     第六回

 夜具|戸棚《とだな》に隣りたる一間の床の間には。本箱と箪笥《たんす》と同居して。インキのこぼれたる跡ところどころにあり。箪笥の前にはブリッキの小さなかなだらいの中に。くせ直しのきれ丁寧にたたんではいっている。その側《わき》に二三本のけすじたてに。びんぐしが横たわりてあれども。あたりはさすがに秩序整いて。取りちらしたるものもなし。今使いがもち来たりしとみゆる包みを前におきて。窓によりかかりたる一人の生徒。ふじびたいのはえぎわへ。邪見に手をつっこんで。前髪の下りたるを幾たびかなで上げながら。西施《せいし》のひそみにならえるか。靄々《あいあい》たる眉《まゆ》のあたりに。すこししわをよせて。口の中で手紙をよんでいるところへ。来かかりたる女生徒。目は大きやかなれどどこにか愛敬あるが。そっと障子を明けて。
女生徒「服部さん。あなた今日はお帰りにならないの。
服「エエ今この手紙が来まして。今日は帰るなといってきました。
女「そう。にぎやかでいいこと。あの英和|字彙《じい》があるならお貸し遊ばしてちょうだい。
服「サアサアお持ち遊ばせ。今何かもたせてよこしましたから。マアはいってめし上がっていらっしゃいナ。
女「ありがとう。ではあの斎藤さんもおよび申しましょう。斎藤さん斎藤さん」と隣の部屋の口から呼ぶ。
斎藤「なにー。私は今日ねむくってしょうがないのヨ。そのくせ夕べは八時ごろに講堂でいねむりをして。相沢さんにおこされて。びっくりしてお部屋へかえって。寝巻もきかえないでねてしまった。アー」と大あくびをしながら。バタリと障子をしめて入り来たる。
女「アラ斎藤さん下手《げす》の一寸ヨ。
斎「よくってよ。あんまりこもっているから。炭素を追い出してやるんだワ。
女「あんな口のへらないこと。
斎「口はへらなくってもおなかがへってヨ。なにかおしょうばんにあずかりたいこと。
女「ですからおよび申したの。
斎「および遊ばすからおいで遊ばしたのヨ……。ドレですコレ。お内からきたの。お包みを明けますヨ。オヤオヤ風月堂のカステイラに。落花生《らっかしょう》が一袋。この袋は五銭ばかりのふくろネー。この重箱の下は。オヤオヤお菜ネー。白魚とくわいのお手料理は。きっと奏任官の令夫人が。お浪《なみ》にたべさせたいとおこしらえ遊ばしたの。アア親の恩は海より深し。
女「斎藤さんしゃべってばかりいらっしゃると。みんなわたくしがいただいてしまいますヨ。
斎「ですがネー。わたくしは夕べおかしな夢を見てヨ。福ちゃんがネ女になって。私の兄のところへよめに来たいといいますから。そんなことをいわないでほんとの男になって。あたしのおむこさんにおなんなさい……。兄さんはネ。夜会でお目にかかるミス服部という人が大へんに好きですから。お気の毒様といったら福ちゃんがおこって。
女「ヨー斎藤さんもうおよしなさいヨ。サア」トかすていらをペンナイフで切って出す。「メネーメネー。サンキュー。ホワ。ユウワ。カインド」と片言の英語を囀《さいず》りながらチョイとつまんで「それからネー宮崎さん。
宮「モウおよしなさいヨ。あなたは磊落《らいらく》だからおかまいにならないけれど。ヨーもうよして頂戴。
斎「ヘイヘイ恐れ入りました。じゃア相沢さんをつれてきて。あたしは一しょにお咄しをするワ」とバタバタたべながらかけて行く。
宮「ほんとに。クイッキ、モーション(Quick motion)ナ人ネー。
服「ですけれどもあの方は兄さんによく似て。才はなかなかありますよ。いくらもアーいう人があるもんですヨ。
宮「だけれどほんとにいやなのはあのおなま(朋輩《ほうばい》生徒か)さんネー。いやに体裁ばかりつくって。何か自分の作文の点でもわるいと。ヤレいそがしかったからいけなかったなどといいわけばかりして。そのくせに西洋好きでいらっしゃって。内地雑居になるとどうだのこうだのとおっしゃるのヨ。私はあんまりくやしくなりましたけれども。いつかあなたの作文ネー。私は暗誦《あんしょう》しておりますヨ……。聖賢の教えも得手勝手に取りなして聞く時は。身を乱だすこともあるべし。いやしき賤《しず》が小歌も心をとめて聞く時は。おしえにならざるはなし。げにその地にあらざれば。これをううれども生ぜず。その人にあらざれば。これを語れども聞えず……。私は大へんこの作文が好きですから。お手本にしてだまっていましたワ。
服「お記憶のよいこと。私くしすらわすれてしまいました。そういえば篠原さんでもお兄様《あにいさま》がきのう御帰京になりましたとネ。
宮「オヤあの方はH《エッチ》じゃアないの。
服「Hですけれどエンゲイジばかりですから。はま子さんも兄様《にいさま》とおっしゃっていらっしゃいますヨ。
宮「そうしてどうするでしょう。あの不品行では到底お嫁になれますまいネー。
服「そんなことをおっしゃりますナ。あの方々はなかなか教育もありますから。そんなことはありません。それは世の浮説でしょう。このごろはみんなよい方は文明の国にまけないで。夜会の何のと御尽力ですが。またわれわれ下《しも》の人たちは。みたこともないことばかりですから。疎《うと》いことは疎んじたり賤《いや》しんだりするもので。チョイとめずらしいことがあると。尾に尾を付けてそれをわろくいって。何も知らぬ人にまで。いろいろな風説《うわさ》を皆いいますから。人の口ほどこわいものはござりません。私しのように引込み思案にしていてもいけませんが。マアまだ社会へ出ないで生徒でいるうちは。なるたけ引き込み過ぎるとも出過ぎない方がいいと存じます。
宮「ほんとにネー。あなたのおっしゃることは。よく私しの気にかないますヨ」折か
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