清「アアあの人に大あつあつヨ。
婆「だっておめえさんはこなえだ御新さんとへんだっていわしったじゃアないか。
清「アアどうも御新さんとも変にちがいないよ。一昨夜《おととい》の晩もよせへ行くと二人で出ていって。一時近くまでかえってこないから。ウトウトいねぶりをしていると。車の音がしたから。飛んで出て格子をあけて見ると。二人相のりでぐでんぐでんによって帰ってきなさったが。山中さんは男がよくって。口先がいいからだれでもまようヨ。だけれどあの人もネエかあいそうヨ。あの西郷の時におとっさんが陸軍の少尉とかを勤めていて。あっちで討死をしてしまって。その翌年にはおっかさんが病気で死んで。身より便《たよ》りもないものだから。うちの旦那《だんな》がまだ生きている内に。かあいそうがって商買《しょうばい》の手伝いをさしたり。何かして家へおいてやって。しぬ前に篠原さんへたのんで官員さんにしてやったのだが。少し横文字が出来て。口先がよくって。如才ないものだから。だんだんあがって。今は二十五円もお取りなさる。あの人はそういう如才ない人だし。内の御新さんももとが泥水社会《どろみずなかま》の人間だから。なかなか後家をたっちゃアいられないよ……。おや取次ぎがあるようだヨ。
婆「じゃアまたこんだお願がい申します」と玉子屋は帰り行く。お清はチョイとおもてをのぞいてみて。あたふた二階へ上りかかれば。ちょうど下りくる主人《あるじ》のお貞。
貞「だれー。
清「あのさっきの。
貞「じゃア二階へお通し申して。あのおよびなすっても聞えないといけないから。次の間についておいでよ」お清はたすきをはずしながら。
清「フーンとんだお張番だ。
貞「エ針箱がどうしたの。
清「ナニあたしの針箱が通りみちに。オヤまたよぶヨ聞えていらア。ドーレ。
○よくいえばわるくいわるる後家のかみ。とたれやらが口吟《くちずさ》みけん。後家《おんなやもめ》の世に処することぞ難かりける。むかしの慣習にて主の死去したる時は一途《いちず》にはやまりて松の操色かえじと。プッツリ思い切りかみも。ようやくのぶるにしたがいて。アアあのかみをかもじにして。今さら丸わげにも結われまいか。時たまは束髪か櫛巻きにしてみたいと。かえらぬ悔いのなきにもあらざるべし。むしろ女やもめに花をさかせて。あからさまによめ入らん方《かた》ぞしかるべき。泰西諸国《せいようくにぐに》にては。公然《おおやけ》に再縁してはじざるときくものを。何をくるしみてか。松ならぬ木を松めかして。時ならぬ寄生木《やどりぎ》の生《お》い出でけん折。色かえぬ操の名にも似ず。顔に紅葉《もみじ》するははずかしからずや。

     第三回

 巍々《ぎぎ》たる高閣雲に聳《そび》え。打ち繞《めぐ》らしたる石垣《いしがき》のその正面には。銕門《てつもん》の柱ふとやかに厳《いか》めしきは。いわでもしるき貴顕の住居《すまい》。主人《あるじ》の公《きみ》といえるは。西南|某藩《それはん》の士《さむらい》にして。維新の際《とき》人に勝《すぐ》れたる勲功のありし由は。門に打ちたる標札に。従三位《じゅさんみ》子爵|某《なにがし》と昨日今日|墨黒《すみぐろ》に書きたるにても知りぬべし。さればその昔し尊王を唱え攘夷《じょうい》を説き。四方に奔走せし折は。西洋文明の国々をも。醜夷と卑しめ黠虜《かつりょ》と罵《ののし》りし癖の。いま開明の世運に際するも。まだぬけかねたるを。同じ藩士にて。今内閣に時めきたる親しき人々が。かくてはついに世の風潮に後《おく》るべし。官職を帯びて洋行し。西洋各国を巡視せば。必ず悟るところあるべしとの勧めにより。一歳《ひととせ》欧州に遊歴せしに。帰朝の後は打って変りたる洋癖家となり。わが国の食物は衛生に害ありとて。もっぱら西洋の割烹《りょうり》を用い。家屋《すまい》も石造|玻窓《はそう》にかぎり。衣服は筒袖|※[#「口+尼」、第4水準2−3−73]布《らしゃ》ならでは着するを厭《いと》い。家の婢僕《ひぼく》に至るまでも。わが国振りの衣服を着せしめず。皆洋服の仕為着《しきせ》を用いしむるまでにして。一も西洋二も西洋と。かの風俗《てぶり》をのみまなぶこととなりぬ。これなん第一回にいでし。篠原浜子の父|通方《みちかた》なり。年は五十をこしたれども。男子《なんし》なくただ一人の女子《にょし》浜子のみなりければ。愛に溺《おぼ》るるとにはあらざれど。おのずからしつけもおろそかなるに。西洋の風とさえいえば何事もよしとして。西洋の娘子《むすめ》は交際をもっぱらとし。芝居見物。夜会。踏舞と昼も夜も遊びくらすものなりなどといえる咄しさえききかじりて。学校の修業などは二の次として。ピヤノ。バイオリンなどの稽古《けいこ》にのみ身をよせさせつ。またかの家庭の訓《おし》えは母親にありというなるに。そが母は元よりの田舎《いなか》そだちにて。一と通りの読み書きさえもおぼつかなきゆえに。浜子はいとど見落しつつ。教育なき女子は仕方なしなどと。口に出《いだ》していうほどなれば。もとよりそのいうことをきくべきようはなし。されば一家の内にありては。浜子はわれ一人のごとくふるまいおるも。誰一人とがむるものなければ。こころあるものはひそかに爪《つま》はじきしてそしりあいしとかや。
中働き下女「オヤお前はどうしたのだ。まだお嬢様のお帰りのないのに。そんなに寝そべってサ。
下女「ナニもう十二時ではございませんか。男でさえそう夜ふかしはしませんのに。なんぼだってもネ。
中働き「またそんなことをおいいだ。殿様がお聞きならじきニ大眼玉だヨ。西洋というところでは。夜会では夜明かしになるのはあたりまえのようなものだから。娘の子なんぞは朝はいつでも十一時か十二時まではおきないと。ふだんおっしゃッて。日本もはやくそういう風俗にしたいなんどと。おっしゃッてではないか。
下女「それでもどこのうちもそうならいいけれども。こなたなどでは夜おそいばかり。朝はやっぱりお隣やお向うでおきる時分にはおきなければならないから。ツイねむくなるの。
中働き「そうサ。それはわたしたちばかりではない。奥様でも随分西洋風にはお困りサ。いつかもどうもたべつけたものだから沢庵《たくあん》がたべたいとッて。上ったことがあったが。その時いた書生さんが悪口に。令夫人は殿様にかくして。沢庵とまおとこをなさったといったことがあったよ。アハアハ。それはいいがお嬢さんがお帰りでも。なかなかすぐにはおよらないで。今日はだれさんと一しょにおどったとか。まただれさんがこういったとか。いつでもしまいには。あの山中さんののろけをうけさせられるのがつらいの。
下女「ソレデモあの洋行していらっしゃる若様が。殿様の遠いお続きとやらで。お嬢様のお婿様だというではないか。それにあんなことをおっしゃってもいいのかネ。
中働き「そこが開化とやらで。おまえのような旧弊をいってはいけない。なにもあやしいわけがなければ。男と女の附合いはアア開けた風でなければいけないと。いつも殿様がおっしゃるよ。
という折から馬車のおとガラガラガラ。馬丁《べっとう》の声「お嬢様おかえり……。

     第四回

 九段坂より堀伝えに。ほおの木歯《きば》の足駄をガラガラ。と学校の帰りにやあらん。年ごろはおのおの十五ばかりなる二三人の少年。一人は白き帆木綿《ほもめん》のかばんをこわきにかい込み。毛糸織りの大黒頭巾《だいこくずきん》を戴《いただ》きたる。身柄いやしとはみえねど。他の二人にくらぶれば。幾分か麁末《そまつ》なるところあるがごとし。少ししまがらのはでに過ぎたるめんめいせんの綿入れも。あかづきたとにはあらねど。つぎめ肩のあたりにしるくて。随分きからしものとみえたり。
△「君きょうのレッソンはデフィガルトだったねえ。
□「アーだけれど僕は昨日ブラザアに下読みをしてもらったから。すこぶるイージーだったゼ。
○「僕もおやじにしてもらったヨ。松島君はだれも下読みをしてくれてがないから。どうしても講堂じゃア出来ないけれど。そのわりにゃア試験に好結果を得るから希代《きたい》だヨ。
□「松島君のうちゃア姉さんばかりでよく月謝に困らないネー。どこから金が出るのだ。
○「それやアあし男《お》くんの姉さんが。なかなかえらいもんだっサ。この間僕の父《おやじ》が一番町の宮崎さんへいったら。あっちの長屋にお秀という娘があるが。毛糸編みの内職をして弟の学費に充《あ》てるといったとサ。公債証書ももっているけれど。姉さんが少しも手をつけんとサ。
□「そうかあし男君ほんとか。
葦「ウウン。僕はそんなことはしりゃアしない。失敬。
○「ヤアここから別れるのか。じゃア君あすさそうゼ。
葦「ナニさそってくれんでもいい。
○□「グードバイ。
○□「君きゃつはかくしているゼおかしいやア」という声をあとに残して。チョッいまいましいという顔色。口をムグムグやりながら坂をあがって。三丁目谷のとあるうちまで一さんにかけてきて。格子をガラリバタリ。どたどたとあがる。
秀「オヤ葦男さん。今日は大そうおそかったネ。おっかさまの御命日で。お茶の御ぜんを焚《た》いたから。お肚《なか》がへったら。おむすびにでもしてあげようか。
葦「ナニ何もいらない」と帽子と弁当をほうり出す。
秀「オヤオヤいけませんネー。あたしはこのショールを一つあむと。糀町《こうじまち》の毛糸屋へいってこないではなりませんから。いつものように机を出して一遍さらっておいで。そして今におしえて下さい。
葦「アア。姉さんもう来月はおとっさまの三年になるねえ。りっぱにしたいねえ配り物でもして。
秀「だって御生前《ごしょうぜん》の御知己でお配り物でもするようなおうちがあるといいけれど。お国から出ると一昨年《おととし》去年と引き続いて。おとっ様もおっか様もおなくなりになるし。国には遠い親類もあるけれど。国へかえればおまえもあたしも。ほんとの無学文盲になるから。なんでもあたしが一生けん命になって。東京でお前をえらいものにしたいと思っていますから。そのつもりで勉強して下さいヨ。あの宮崎さんはいろいろおせわにもなるし。親切にお店《たな》ちんまでやすくして下さるから。御命日にはおはぎでもこしらえて。もっていってもらおうと思っています。
葦「アア。そうして宅《うち》の公債証書はどのくらいあるノ。
秀「そうネー。千五百円ばかりあります。もっともおっかさまがお死去《なくなり》なすった時。おとむらいだのなんかによっぽどつかいましたが。もうもうあればかりはそっととっておいて。お前もあたしも身のかたまる時の大事な資本です。
葦「だけれどネねえさん。僕はもうじきに大学の官費生にはいるから。もう三年ばかりのところ。あのお金を出してつかって。姉さんも塾にはいッて。二人とも勉強した方がいいじゃアないか。
姉「イイエそういうけれど。今つかってしまっては。せっかくおとっ様のおほね折りも水の泡《あわ》になりますヨ。あたしがこうして内職をして。月々のこったのを。三銭五銭ぐらいずつ郵便局へあずけたのが。二円五十銭ばかりになりますから。ほしいものでもあるならそれでお買いなさい。
葦「ほしい物なんざアちっともないけれど。学問好きのねえさんが。毎日毎日毛糸あみばかりしていて。僕はなんだか気の毒だもの。
秀「イイエ学問はお前が学校でならってきたところを。よく覚えておしえて下さるから。学校へいって勉強するも同じこってす。あたしを気の毒とお思いなら。早くりっぱな人になって下さいヨ。なかなかお前の今の学力では。大学へ入校もどうだかしれません。こんど宮崎さんへあがったら。あの方は文学士で大学の助教もなさるそうだから。よッくお前の志操《おもうこと》を咄してお願い申しておいでなさい。
葦「アア。だけれど僕アくやしくってたまらんもの」とうるみごえになる。
秀「ナニガ。ぜんたい神経質《くろうしょう》でくだらないことを気になさるヨ。どうしたの。
葦「だって僕のことを。ねえさんの毛糸編みの内職の金で勉強するいくじなしだ。姉さんのすねかじりはめずらしいというもの。みんなは両親がある
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