分長くなりそうだということを察して、見知らぬ人がおしゃべりの間にとって食べられるように、パンと葡萄との食事を用意していました。彼等は喜んでこの簡単な食事を彼にすすめました。そして、彼一人でたべるのがきまりが悪いといけないからというので、娘達も時々、おいしい葡萄をつまんで、薔薇色の口に入れました。
 旅の人はつづいて、彼が一年間ぶっ続けに、息を入れるために休みもしないで、大変足の速い牡鹿を追っかけて行って、とうとうその叉《また》になった角をつかまえて、生捕《いけどり》にして家につれて帰った話をしました。それからまた彼は、半分人間で半分馬みたいな、とてもおかしな人種とたたかって、こんないやな形のものが、この先、人の目につかないようにするのは自分の務めだというような考えから、それらをみんな退治てしまいました。いろいろそんなことをした上に、彼は或る厩《うまや》の掃除をしたことを大変手柄のように言いました。
『そんなことが大した手柄だとおっしゃるんですか?』と若い娘の一人が笑いながら訊きました。『田舎のどんなお百姓だって、それ位なことはしますわ!』
『もしもそれが普通の厩だったら、僕はなにもわざわざこんな話をしやしませんよ、』と見知らぬ人は答えました。『しかしそれはとても大仕事で、もしも僕が川の流れを、その厩の入口へ向けるといううまいことを考えなかったら、その掃除に一生かかったかも知れません。ところが、川のおかげで、すぐ掃除が出来てしまったのです!』
 美しい娘達がいかにも熱心に聞いているのを見て、彼は次には、幾羽かの怪鳥を射落したこと、野牛を生捕《いけどり》にして、また放してやったこと、沢山の野生の馬を馴らしたこと、それから、アマゾン女族の戦争好きの女王ヒポリタを征服したことなどを話して聞かせました。それからまた、ヒポリタの魔法にかかった帯を取上げて、それを彼のいとこの王様の娘にくれてやったことも話しました。
『それは女達を美しくするヴィーナスの帯ですか?』と、娘達のうち一番きれいな子が尋ねました。
『いいえ、』と見知らぬ人は答えました。『それはもと、ローマの軍神マアスが剣をつるしていた革帯です。ただ、それを締めると、勇気と元気とが出るのです。』
『剣をつっていた帯のお古《ふる》ですか!』と、その娘は首をしゃくって叫びました。『それじゃ、あたし欲しかあないわ!』
『そりゃそうでしょう、』と見知らぬ人は言いました。
 なお彼は驚くべき話をつづけて、今までの冒険のうちで一番変っていたのは、六本足の男ヂェリオンと闘《たたか》った時のことだと娘達に話しました。君達にも十分見当がつくと思うが、それはとても変てこな、おそろしい恰好のものでした。砂か雪かについた彼の足跡を見たら、誰だって、三人の仲のいい友達が一しょに歩いたのだと思うでしょう。少しはなれて彼の足音を聞くと、幾人《いくたり》かの人が来るのにちがいないという気がするのも、決して無理はありません。しかし、ただヂェリオンという不思議な人間が、六本足でがらごろとやって来るのでした!
 六本の足と大きなからだ一つ! たしかに、彼は見るも奇妙な怪物だったにちがいありません。それにまあ、どんなに靴の皮がへったことでしょう!
 見知らぬ人は彼の冒険談を終った時、熱心に聞いていた娘達の顔を見廻しました。
『多分あなた方は、僕のことをこれまでに聞いたことがあるでしょう、』と彼は別に威張りもしないで言いました。『僕の名はハーキュリーズというんです!』
『さっきから見当がついていましたわ、』と娘達は答えました、『だって、あなたのめざましい働きは世界中に知れ渡っているんですもの。もうあたし達は、あなたがヘスペリディーズの金の林檎を捜しにお出かけになるのを、変だなんて思いませんわ。さあ、みんな、この勇士に花の冠をかぶらせましょう!』
 そこで彼等は美しい花環を、彼の立派な頭と大きな肩との上に投げかけたので、獅子の皮は殆どすっかり薔薇におおわれてしまいました。彼等は彼の重い棍棒を取って、この上もなくきれいな、やさしい、匂いのいい花をそのまわりに巻きつけたので、中の樫の木は指の幅ほども見えなくなってしまいました。何のことはない、まるで大きな花束のようでした。おしまいに、彼等は手をつないで、彼のまわりを踊りながら歌いましたが、その言葉はおのずから詩となり、天下に鳴り響くハーキュリーズをほめたたえる合唱となって行きました。
 ほかのどんな勇士だってそうでしょうが、ハーキュリーズも、これらのきれいな娘達が、彼が大変骨を折り、あぶない目にもあって、なしとげた勇ましい行いを聞いて知っていてくれたことを、うれしく思いました。しかし、まだまだ、彼は満足していませんでした。彼はまだほかにやるべき、勇気の要《い》る、むずかしい冒険が残っているうちは、彼が今までにやったこと位では、こんなにほめてもらう値打があるとは思えませんでした。
『娘さん達、』彼等が息を入れるために休んだ時、彼は言いました、『あなた方が僕の名前を知ったからには、ヘスペリディーズの庭へはどう行っていいのか、僕に教えてくれませんか?』
『ああ、そんなにお急ぎにならないといけないんですか?』と彼等は叫びました。『あなた――そんなに沢山すばらしいことを仕遂げ、そんなに骨の折れる月日を送っていらしって――少しはこの静かな川の縁でお休みになる気にもなれないんでしょうか?』
 ハーキュリーズは頭をふりました。
『僕はもう出かけなくてはなりません、』と彼は言いました。
『それじゃ、あたし達出来るだけくわしくお教えしましょう、』と娘達は答えました。『あなたは海岸へ出て、「老人《オウルド・ワン》」を見つけて、金の林檎のありかを無理にも言わせなければなりません。』
『「老人《オウルド・ワン》」ですって!』とハーキュリーズは繰り返して、そのおかしな名前を笑いました。
『そして、一体その「老人《オウルド・ワン》」というのは誰なんです?』
『あーら、あの「海の老人」にきまってるじゃありませんか!』と娘の一人が答えました。『彼には五十人も娘があって、その娘達は大変美人だといってる人もあります。しかしあたし達は、その娘と知合いになることはよくないと思っています。なぜって、その人達は、海のように青い髪の毛をして、からだがおさかなみたいにすぼまっているんですもの。とにかく、あなたはこの「海の老人」と話をしなくてはなりません。彼は船乗り稼業《かぎょう》をしていて、ヘスペリディーズの庭のことは、なんでも知っています。というのは、その庭は、彼がいつも出かけて行く島にあるのですから。』
 そこでハーキュリーズは、どの辺へ行けば、一番その「老人《オウルド・ワン》」に会えそうかと訊きました。そして娘達がそれを教えてくれた時、彼はパンや葡萄を御馳走になったことや、美しい花をかぶらせてもらったことや、歌や踊りでほめてもらったことなど、一々礼を述べ、とりわけ、本当の道を教えてくれたことに対して娘達に感謝して、すぐに旅に出ました。
 しかし、彼がまだ声が届かないほど遠くへ行かないうちに、娘の一人が、うしろから彼に呼びかけました。
『「老人《オウルド・ワン》」に出会ったら、彼をぎゅっとつかまえていらっしゃい!』彼女はほほ笑みながら叫んで、その注意を一層よく頭に入れさせるために指を上げて見せました。『どんなことが起っても、びっくりしちゃいけませんよ。ただ彼をしっかりと、つかまえていらっしゃい、そうすれば彼はあなたの知りたいことを教えてくれるでしょう。』
 ハーキュリーズは重ねて彼女に礼を言って、旅をつづけました。一方娘達の方は、また楽しい花環つくりの仕事をやり出しました。彼等はハーキュリーズが行ってしまった後も、長い間彼の噂をしました。
『あの方が百の頭をもった竜を退治て、三つの金の林檎を持ってここへ帰っていらしったら、あたし達の一番美しい花環をかぶらせて上げましょうよ、』と彼等は言いました。
 その間に、ハーキュリーズは、丘や谷を越え、淋しい森を抜けて、どんどん旅をつづけました。時々彼は棍棒を高く振り上げて、樫の大木を一打ちでたち割ってしまいました。巨人や怪物と闘《たたか》うことが彼の一生の仕事だけに、心は彼等のことで一杯だから、おそらく大きな木までが巨人や怪物のように見えたのでしょう。そして、ハーキュリーズは彼の引受けたことをやりとげようと、大変はりきっていたので、あの娘達を相手に、無用の冒険談などをして、大変暇をつぶしたことを後悔するような気持にさえなりました。しかし、大きな仕事を仕遂げるように生れついた人は、必ずそうした気持になるものです。彼等が既にやってしまったことは、実につまらなく思えてくるのです。そして、これからやろうとすることが、骨折りと、危険と、そして命にさえも値するような気がするのです。
 ちょうどその森を通り合せた人は、彼が大きな棍棒で木を打っているのを見て、びっくりしたにちがいありません。ただ一打ちでもって、幹は雷にうたれたように裂け、大きくひろがった枝は、ざわざわと音を立てて、崩れるように落ちて来ました。
 彼は少しも立止ったり、あとをふりかえったりしないで、どんどん先を急ぐうちに、やがて遠くから海鳴《うみなり》の音が聞えて来ました。それを聞くと、彼は更に足を早めて、まもなく、とある海岸へ出ました。そこには、大きな磯波が、真白な泡の長い線を引いたように、堅い砂の上に打上げていました。しかし、その海岸の一方の端には、ちょっとした灌木林が崖を這い上るように生えていて、その岩になった表面を、やわらかく、美しく見せている気持のいい場所がありました。匂いのいいうまごやしが沢山まじった、毛氈を敷いたような青草が、その崖と海との狭い間を蔽うていました。そして、ハーキュリーズがそこに見つけた人こそ、ぐっすりと眠っている一人の老人でした!
 しかし、それは実際、間違いなく老人だったでしょうか? たしかに、ちょっと見ると、それはいかにも老人のようでした。しかしもっとよく見ると、それはむしろ、何か海に棲んでいる動物みたいでした。というのは、彼の脚や腕には、魚にあるようなうろこがありました。彼は足や手に、家鴨みたいなみずかきがついていました。そして彼のあごひげは、緑色をしていて、普通のあごひげというよりも、一束の海藻のように見えました。君達は船材の切端《きれはし》が、長いあいだ波にもまれて、藤壺が一杯くっついて、とうとうしまいに、深い深い海の底から打上げられたのかと思われるような風になって、岸に漂着しているのを見たことがありますか? とにかく、その老人を見ていると、ちょうどそういったような、波にもまれた材木を思わせるものがありました。しかしハーキュリーズは、その不思議な姿を見るとすぐに、これこそ彼に道を教えてくれる筈の「老人《オウルド・ワン》」にちがいないと思いました。
 そうです。これこそあの親切な娘達が彼に話して聞かせた「海の老人」にほかならなかったのでした。ちょうどうまく、その老人が眠っているところを見つけるなんて、自分はよほど運がいいのだと喜びながら、ハーキュリーズはしのび足で彼の方へ近づいて行って、彼の腕と脚とをつかまえました。
『ヘスペリディーズの庭へは、どう行けばいいか、教えてくれ、』老人がまだよく目もさまさないうちから、彼はそう叫びました。
 君達にもたやすく想像がつく通り、「老人《オウルド・ワン》」はびっくりして目をさましました。しかし、彼がびっくりしたよりも、次の瞬間には、ハーキュリーズの方がもっとびっくりした位でした。というのは、急に「老人《オウルド・ワン》」が、彼のつかまえている手から消えたように思うと、いつのまにか彼は牡鹿の前足と後足とをつかまえているのでした! それでも彼は、しっかりとつかまえて放しませんでした。すると牡鹿が消えて、今度は海鳥になって、ハーキュリーズがその翼と足とをつかんでいると、ばたばたとあばれて啼き立てました! しかし、鳥は逃げ出すことが出来ませんでした。す
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