、まるでそれを生埋《いきう》めにしたように見えたからです。少し前から、低いうなりみたいな、つぶやきみたいなものが聞えていましたが、俄かにそれが大きな雷鳴となってとどろき渡りました。しかしパンドーラは、そんなことには一向おかまいなく、蓋を大方まっすぐに上げて、中を見ました。何だか急に、翼の生えたものが一杯彼女の傍をかすめて箱から飛び出したような気がしたと思うのと一しょに、エピミーシウスが、悲しそうな調子で、何だか痛そうに叫ぶのが聞えました。
『おう、僕刺されっちゃった!』と彼は叫びました。『僕刺されっちゃった! 意地悪のパンドーラ! どうして君はこのおそろしい箱をあけたんだ?』
 パンドーラは蓋をおろして、びっくりして立上り、エピミーシウスの上に何事が起ったのかと、あたりを見廻しました。夕立雲のために、部屋が大変暗くなっていたので、彼女は中のものがあまりはっきりと見えませんでした。しかし何だかとても沢山の大きな蠅か、大きな蚊か、又はわれわれがかぶと虫とかはさみ虫とかいっている虫みたいなものが飛び廻っているような、ぶうんという、いやなうなりが聞えました。そして、彼女の眼が薄暗がりに慣《な》れて来ると、蝙蝠のような翼をして、とても意地が悪そうで、お尻におそろしく長い螫《はり》を持った、いやな小さなものが一杯いることが分りました。エピミーシウスを刺したのは、そのうちの一匹なのでした。まもなくパンドーラもまた、エピミーシウスに負けないくらい痛がったり、こわがったりして、悲鳴をあげ始めましたが、その騒ぎ方はずっとひどいものでした。一匹の小さな怪物が彼女の額《ひたい》にとまっていましたが、もしもエピミーシウスが飛んで行って、それを払いのけなかったら、彼女はどんなに深く刺されていたか知れません。
 さて、その箱から逃げ出したこれらのいやなものは一体何かということを君達が聞きたがるなら、それはこの世の「わざわい」の全一族だったと、僕は答えなければなりません。その中には、悪い「情欲の虫」もいました、とてもいろんな種類の「心配の虫」もいました、百五十以上の「悲しみの虫」もいました、みじめな、いたましい恰好をした、とても沢山の「病気の虫」もいました、それから、「いたずらの虫」の類に至っては、お話にもなんにもならないほどいました。つまり、その時から今日まで、人間の心やからだを苦しめて来たものは、すっかりその秘密の箱の中に閉じ込められていたもので、大切に取っておくようにといって、エピミーシウスとパンドーラとに渡されたのも、世の中の子供達がそんなものに苦しめられることのないようにしたかったからでした。もしも彼等が頼まれた通りにしていたならば、万事都合よく行ったことでしょう。その時から今に至るまで、悲しい思いをする大人もなかったでしょうし、子供達にしたって、涙一滴こぼすわけもなかった筈なんです。
 しかし――これで見ても、誰か一人でも間違ったことをすると、世間全体が迷惑するというわけが君達にも分るでしょうが――パンドーラがそのとんでもない箱の蓋をあけたことと、それからまた、エピミーシウスがそれをとめなかったというおちど[#「おちど」に傍点]とによって、これらの「わざわい」がわれわれの間に足がかりを得て、急には追っぱらえそうにもなくなったのです。というのは、君達にもたやすく分る通り、この二人の子供は、そのいやなものの群を、彼等の小さな家から出さないでおくというわけには行かなかったからです。それどころか、彼等はそんなものは早く出て行ってほしかったので、何よりも先に、戸口と窓とをあけ放しました。すると、果して、その翼の生えた「わざわい」達はみんな外へ飛び出して行って、そこいら中の子供達をひどく苦しめ悩ましたので、その後幾日もの間、彼等の誰もが、にこりともしなかったほどでした。それから、大変不思議なことには、これまでどれ一つ凋《しぼ》んだことのなかった草花や露を帯びた花までが、今度は一日二日たつと、だらりとなって、花びらが散りはじめました。その上、今までは、いつまでも小さいままでいそうに思われた子供達が、今度は一日々々と年を取って、まもなく青年や年頃の娘になり、やがては大人になり、そんなことは夢にも思わないうちに、じいさん、ばあさんになってしまいました。
 さて、仕方のないパンドーラと、それに負けないくらいのエピミーシウスとは、家の中にじっとしていました。彼等は二人ともひどく刺されて、大変痛かったのですが、それが世界始まって以来感じられた最初の痛さであっただけに、彼等には一層|耐《た》え難く思われました。いうまでもなく、彼等は苦痛にはまるで慣《な》れていなかったので、それが何のことやら、わけが分りませんでした。そこへもって来て、彼等は二人とも、自分自身に対して、それからお互同志に対しても、ひどく不機嫌になっていました。思いきりその不機嫌に耽るために、エピミーシウスはパンドーラに背中を向けて、隅っこの方で、ふくれっ面《つら》をして坐っていました。一方パンドーラは、床の上に身を投げ出して、頭をあの恐しい、いやな箱に乗せていました。彼女はひどく泣いて、胸も張り裂けそうにすすり上げていました。
 不意に、箱の蓋を、中から静かに、低くたたく音がしました。
『あれは一体何でしょう?』とパンドーラは叫んで、頭を上げました。
 しかしエピミーシウスは、そのとんとんという音が聞えなかったか、それともあんまり腹を立てていたので、それに気がつかなかったのでしょう。とにかく、彼は何とも答えませんでした。
『あんたひどいわ、あたしに口を利かないなんて!』とパンドーラは言って、また啜《すす》り上げました。
 またとんとんと音がします! それは妖精の手の小さな拳骨のような音で、軽く冗談半分みたいに、箱の内側をたたくのでした。
『お前は誰だい?』とパンドーラは、少しまた、前の好奇心を出して尋ねました。『だあれ、このいけない箱の中にいるのは?』
 小さな、いい声が中から言いました、――
『蓋をあけてさえ下されば、分りますよ。』
『いや、いや、』とパンドーラは、また啜《すす》り上げはじめながら答えました、『あたし蓋をあけることは、もう沢山だわ! お前は箱の中にいるんでしょ、意地悪さん、いつまでもそこに入れといてやるから! お前のいやな兄弟や姉妹は、もう、一杯世の中を飛び廻っているよ。お前を出してやるほど、あたしが馬鹿だと思ってもらっちゃ困るわ!』
 彼女はそう言いながら、多分エピミーシウスが彼女の分別をほめてくれるだろうと思って、彼の方を見ました。しかし怒っているエピミーシウスは、彼女が今から分別を出したって、少し手おくれだ、とつぶやいただけでした。
『ああ、』とその小さな、いい声はまた言いました、『あなたはわたしを出して下さった方が、ずっといいんですよ。わたしは、あんなお尻に螫《はり》のくっついたような悪い者とは違うんです。彼等はわたしの兄弟や姉妹じゃありません。それはあなたがわたしを一目《ひとめ》ごらんになりさえすれば分ります。さあ、さあ、可愛らしいパンドーラさん! きっとわたしを出して下さるでしょうね!』
 そして、実際この小さな声で頼まれると、どんなことでも何だかことわりにくくなってしまうような、一種の愉快な魅力が、その調子の中に含まれていました。パンドーラの心は、その箱の中から聞えて来る一語々々に、知らず識らず軽くなっていました。エピミーシウスもまた、まだ隅の方にはいましたが、半分こっちを向いて、前よりもいくらか機嫌がよくなっている様子でした。
『ねえエピミーシウス、』とパンドーラは叫びました、『あんたこの小さな声を聞いて?』
『うん、たしかに聞いたよ、』と彼は答えましたが、まだあまりいい機嫌ではありませんでした。『で、それがどうしたんだい?』
『あたしもう一度、蓋をあけたもんでしょうか?』とパンドーラは訊きました。
『そりゃ君の好きなようにするさ、』とエピミーシウスは言いました。『君はもう大変な悪いことをしちゃったんだから、その上もうちょっぴり悪いことをしたっていいだろうよ。君が世間にまき散らしたような「わざわい」の大群の中へ、もう一匹ほかのやつが出て来たところで、別に対したことはありっこないさ。』
『あんた、もう少し親切に口を利いてくれたっていいでしょう!』とパンドーラは、目を拭きながら言いました。
『ああ、しようのない児だねえ!』と箱の中の小さな声は、ずるそうな、笑い出しそうな調子で言いました。『あの児は自分でも、わたしを見たくてならないのは分っているんですよ。さあ、パンドーラさん、蓋をあけて下さい。わたしはあなたを慰めてあげようと思って、大変気が急《せ》いているんです。ほんのちょっとわたしにいい空気を吸わせて下さい。そうすれば、あなたが考えているほど、そうひどく悲観したものでもないということが分るでしょう。』
『エピミーシウス、』とパンドーラは叫びました、『何だってかまわないから、あたし箱をあけて見るわ!』
『じゃ、蓋が大変重そうだから、僕が手伝って上げよう!』とエピミーシウスは叫んで、部屋の向うから駆けて来ました。
 こうして、双方承知で、二人の子供はまた蓋をあけました。すると、明るい、にこにこした小さな人が飛び出して来て、部屋の中を舞って歩きましたが、彼女の行くところは何処でも明るく見えました。君達は鏡のかけらで日光を反射させて、暗いところでちらちらさせて見たことはありませんか? とにかく、この妖精のような見知らぬ人が、薄暗い家の中を愉快そうに飛び廻る有様は、そんな風に見えました。彼女がエピミーシウスのところへ飛んで来て、「わざわい」に刺されて赤くなったところを、ちょっと指でおさえると、すぐにその痛みは消えてしまいました。それから、彼女がパンドーラの額《ひたい》に接吻すると、彼女の傷もまた、同じようになおってしまいました。
 こうした親切をつくしてくれたあとで、その光を帯びた見知らぬ人は、愉快そうに子供達の頭の上を飛び廻って、大変やさしく彼等を見たので、彼等は二人とも、箱をあけたことはそう大して悪くもなかったという気がして来ました。というは、もしもあけていなかったら、このうれしい訪問者までが、あのお尻に螫《はり》を持った小悪魔達にまじって、箱の中に閉じ込められていなければならなかったでしょうから。
『美しい方、一体、あなたは誰なの?』とパンドーラは尋ねました。
『わたしを「希望《ホウプ》」と呼んでいただきましょう!』とその明るい人は答えました。『そしてわたしはこんな陽気な者ですから、人達に対して、あの大勢のいやな「わざわい」の埋合《うめあわ》せをつけるために箱の中に入れられたんです。どうせ「わざわい」は人達の間にまき散らされることになっていたんですからね。決して恐れることはありませんよ! 「わざわい」がいくらいたって、わたし達はかなり面白くやって行けますよ。』
『あなたの翼は、虹のような色をしてるわねえ!』とパンドーラは叫びました。『まあ、なんて美しいんでしょう!』
『ええ、虹みたいでしょう、』ホウプは言いました、『何故かといえば、わたし陽気なたちなんですけど、にこにこしているだけじゃなくて、少しは涙をこぼすこともあるんですから。』
『そしてあなたは、いつまでもいつまでも、あたし達のところにいて下さる?』とエピミーシウスは尋ねました。
『あなた方がわたしに用がある間はいつまでも、』とホウプは、気持のいい笑顔をして言いました、――『つまり、あなた方がこの世に生きているかぎりということになるでしょうね、――わたしは決してあなた方を見捨てて行かないことを約束しますよ。時により、季節によっては、時々わたしが全然逃げてしまったのかと思うようなことがあるかも知れません。しかし、多分あなたが思いもかけないような時に、ひょっこり、ひょこりと、わたしの翼の光があなた方の家の天井に見えて来るでしょう。本当ですよ、わたしの大好きな子達、そしてわたしはこれから先あなた方がいただくことに
前へ 次へ
全31ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三宅 幾三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング